苦雪のブログ

本やゲーム・映画についての感想を備忘録代わりに時折書きます。基本敬称略。

アマサカナタ『竜歌の巫女と二度目の誓い』、蒼機純『その商人の弟子、剣につき』

 

去年購入してからそれきりだった『竜歌の巫女と二度目の誓い』*1と、『その商人の弟子、剣につき』*2を読破した。

 両者とも、第12回GA文庫大賞の銀賞で、2020年12月に発売された*3。とりあえず一言で感想を言うなら、「概ね高水準のまま着地した『竜歌の巫女』」、「良さげな前半から一転、失速した『その商人の弟子』」といったところか。結果的に、好対照な評価となった。前者については作者の姿勢含め好ましく思えるが、後者については嫌悪染みたものを抱くほどに。

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アマサカナタ『竜歌の巫女と二度目の誓い』(SBクリエイティブ、2020年)

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蒼機純『その商人の弟子、剣につき』(SBクリエイティブ、2020年)

 

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阿津川辰海『蒼海館の殺人』

 

 2021年2月に刊行された阿津川辰海『蒼海館の殺人』(講談社、2021年)*1

 前作『紅蓮館の殺人』後の、葛城・田所ペアの話が、前作以上のボリュームを持って登場することとなった。

 その上で、本作に対する評価だが……、「本作単体としては、優れて技巧的に組み立てられ、前作を承けたストーリーとしても成立しているものの、登場人物の描写の一貫性としては問題があり、この点ではシリーズものとして見ても疑問多し」。相変わらずこの作者(阿津川辰海)は技巧的だと思う反面、見過ごせない点もあった。言い換えれば、本作単体として見れば優れているものの、シリーズものとしては疑問符がつく箇所があった。

 

 

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阿津川辰海『蒼海館の殺人』(講談社、2021年)

 

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阿津川辰海『紅蓮館の殺人』

 

 今回は阿津川辰海『紅蓮館の殺人』(講談社、2019年)*1を取り上げる。

 2021年2月に続編の『蒼海館の殺人』が刊行され、そちらを読んだので、これを機に前作にあたる『紅蓮館』についても記事を書くことにした(『蒼海館』についてはまた別記事で)。

 

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阿津川辰海『紅蓮館の殺人』(講談社、2019年)

 もっとも以下の文章は元々、『紅蓮館』を読んだ際にfusetter(ふせったー)で書いた感想を若干手直した程度のものだ。

 阿津川辰海については当時、『名探偵は嘘をつかない』(2017年) を先に読んでいたのと、私自身がエラリー・クイーンの全作品読破を試みていたこともあり、その辺りとの関連付けが多い。今見ても面白みのない内容と思われるが、しかしそれでも頭と言葉を振り絞って書いたものではあったので、何がしかの意義はあると信じたい。

 

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滝川廉治『Monument あるいは自分自身の怪物』

 

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滝川廉治『Monument あるいは自分自身の怪物』(集英社ダッシュエックス文庫、2015年)

 

 滝川廉治『Monument あるいは自分自身の怪物』を読んだ*1

 この本を読もうと思ったきっかけは、たしかあるライトノベルの感想をAmazonレビューで見た時、評者が名前を挙げて称賛していたからだった、と記憶している。

 結論から言うと、この『Monument』は「面白いが色々と惜しい」と評するのが的確だろう。

 まず面白さについては、世界観・設定のみならず、登場人物の造形にいたるまでが尽く緻密であること、とりわけ人物の感情や思惑を描写することについては秀でている。

 逆に惜しい点。端的に言えば、一冊にすべてを詰め込み過ぎていること、であろう。以下、面白さと惜しい点について、具体的に述べていこう。

 

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かつて吉村達也という作家がいた

 

 

 かつて吉村達也という作家がいた(以下、吉村表記)*1。主にミステリーを執筆し、それ以外でもホラー・サスペンスなど多岐に渡るジャンルで活躍した。氏の作品の中で一番世に知れ渡っているのは、『生きてるうちに、さよならを』(2007年)かもしれない。ここ数年は、氏の初期作が新装版という形で復刊されているため、手にとった人もいるだろう。2012年にガンで亡くなった際、公式ブログにて自らの死を告知するという趣向を凝らすほど、読者サービス・ユーモアに溢れた人物であった*2

 

*1:

あらかじめ言っておけば、この文章は、吉村達也という作家をダシにしているようなものである。しかし、氏の死から相当月日が経った中、人生の決して少なくない時間を氏の作品を読むことに費やした人間が書くことには、何らかの意味はあるかもしれない。少なくとも、一読者から見た氏の長所・短所・限界を記すことに意味はあると信じている。

 本来なら、個別の作品を具体的に取り上げるなり引用するなりして論じるべきであるが、遺憾にして今手元に参照できる氏の文献が全くと言っていいほどない状況のため、「思い出話」の体裁を採用した。もしかしたら、いずれなにかの機会に氏の作品を取り上げることがあるかもしれない。その際、この「思い出話」が何かしらの叩き台となるだろう。

*2: 当時のアーカイブ

web.archive.org

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劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン

 

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(C)暁佳奈・京都アニメーションヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会

 

 3ヶ月ぶりの更新。先日見てきた『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』について、いくつか思ったことを*1

 

さて、『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(以下、『劇場版』)は大きく3つの物語から成り立っている。冒頭から何度か挟まれた、①アンの孫娘デイジーの物語、②病床のユリスとリュカの物語、③ヴァイオレットとギルベルト少佐の物語。

 このうち、①のデイジーの物語については、祖母の過去に関わったヴァイオレット・エヴァーガーデンという人物の足跡を訪ねていくという体裁を採る。当然ながら、このパートにおいては本編の物語は全て過去のお話ということになるので、「ヴァイオレットは18歳でCH郵便社を退職した」ことや、「エカルテ島」にまつわる事実については早い段階から鑑賞者に伝わることになる。なので、序盤からギルベルト少佐が登場することも相まって、物語の大まかな流れや結末は予想できた、という人も少なくないのではないか、と思った。

 もちろん、それでこの作品の面白さが損なわれると言いたいわけではない。劇場では、最終盤のヴァイオレットとギルベルトの再会の下りで、すすり泣いている人もいた。よく彩られ、よく飾られた物語は、奇を衒わない「予定調和」であっても人の心を打つものだから。

 ただ、私自身がこの映画で面白いな、と感じたのはヴァイオレットとギルベルトの再会そのものではなく、むしろその過程の方だ。

 

 例えば、ユリス。死の瀬戸際、ヴァイオレットが愛する人と会えたことに安堵し祝福する彼は、手紙を通して両親と弟に言葉を伝え、電信によって友人に言葉を伝えた。彼の存在は、指切りのこともそうだが、この映画の中で一番大きいと私は思う。

 というのも、彼が危篤にあるとの知らせをエカルテ島で受け取ったとき、ヴァイオレットは彼の元へ戻ろうとする。もちろん、嵐の中移動に何日も掛かるから不可能だ。それでもヴァイオレットがユリスの元へ行こうとしたのは、なぜか。

 直前にギルベルトから会うことを拒否されたというのも大きな要因だが、それ以上に自動手記人形(ドール)としての自分の役割を優先すべきと考えたからだろう。

 もし、心が動かされた・強く印象に残った、刻みつけられたという意味で感動という言葉を使うならば、私はこの映画ではこのシーンが一番好きだと思う。会いたいと思っていたギルベルトに拒絶され、ずぶ濡れになり、しかもその瞬間には自分の見知った人が死を迎えようとしている。そんな中、それでも駆けつけたいと思い、その人のために最善を尽くそうとする。エゴ(自分)のためではなく、オルター・エゴ(誰か)のために、をヴァイオレットが選んだ瞬間が一番だと思う。嵐が明け、ギルベルトが作った滑車でヴァイオレットの手紙が届けられるシーンが、最高潮だと思う。

 それは即ち、私はその後の展開(=ヴァイオレットとギルベルトの再会)を余り大きく評価していない、ということにもなる。確かに、私自身としては、手紙と別れによる終わりの方が、鑑賞者側の「その後」への想像を掻き立てるという意味でも、余韻という点でも良かったのでは、と思うが、既に劇中ではヴァイオレットのその後等について言及されていたので、これはまぁ好みの問題か。とやかく言うつもりはない。

 

 ところで、『劇場版』も含めて、私が一番好ましいと思った登場人物はディートフリート・ブーゲンビリア大佐である。このシリーズでは、レギュラーキャラクターに大佐・(元)中佐・少佐と三人の軍人が登場するが、私はその中では大佐が一番好きで、次に(元)中佐のホッチンズが好きだ。少佐ことギルベルトは実はそんなに好きではない。

 ディートフリートは『劇場版』になって好きになった人も多いのではないか、と思うが私はテレビ版のときから、少佐より大佐の方が「共感」できた。

 というのも、視聴者視点またはそれに比較的近いホッチンズの視点からすると、ディートフリートは嫌なヤツだろう。テレビシリーズ終盤でもヴァイオレットを「人形」呼ばわりしたり、血に塗れた手で手紙を書くのか、と言ったりする。

 だが、彼の視点から見ると、そういう言葉が出てくるのも当然である。(この部分はアニメだとそういう設定としてしか受け取れないのだが)人らしい感情を見せず殺人が得意なヴァイオレットを弟のギルベルトに預ける、しかしギルベルトは行方不明となりヴァイオレットだけが生き残って、新しい人生を生き始めているというのは、誰でも蟠りの一つや二つは出てきそうである。

 そもそも、ディートフリート大佐はヴァイオレットが変わったことそれ自体を最終盤まで疑っていた。それは当然で、(TV版の)作中でヴァイオレットが変わるきっかけとなったのは、3話で出会ったルクリアとその兄を巡るやり取りや、指導役だったローダンセからの諭しというのがあったからだ。ギルベルトとの日々によるきっかけや兆しというものはあったが、決定打となったのはルクリアとの出来事や、ホッチンズの「燃えている」という発現、C.H郵便社の人々や業務の中での体験。それらがあってこそ、ようやくギルベルトの発現の意味と、生きる理由を見出したことになる。

 

 この辺りは、誰にでも明らかなことだろう。しかし、敢えて言うならばテレビ版の大佐のセリフは口調こそ鋭いものの、ヴァイオレットの在り方に対して常に的確な問いを投げかけていたりするし、本人は(多少の偏見はあれど)中立的な面もある。だからこそ、『劇場版』ではそれまでの経緯と母の墓参りも下りもあり、ヴァイオレットに対する蟠りが溶けたから、素の部分がよく見える描写となったのだろう。

 逆に、少佐ことギルベルトに関しては、終止違和感を覚えていたことも否めない。弁護するなら、彼の中では一貫しているし、「常に葛藤を抱えた善意ある軍人」というキャラクターであることは事実。ただし、テレビ版だと結局の所、心中はどうあれ、ヴァイオレットを道具として使って殺戮兵器として利用したことは否定できない。本人はそれに対して思う所がたくさんあったのはそうだが、それでも悪く言えば、言行不一致とか、結局状況に流されているだけとも取れた。彼女の中では大切な存在であると同時に、「呪い」として存在していたようにも見えた。それが物語上、そしてヴァイオレットの生き方にも関わるため、大きな意味がある存在であるとは言え、「死んだ人間への美化」的な印象を拭えなかった。

 これに対し、『劇場版』では少佐に対する印象が多少改善された。やっぱり好青年浪川よりは拗らせ浪川・闇落ち浪川のがいい。自分の軍人としての罪・ヴァイオレットを戦わせたことから、エカルテ島で一人生きることを選択し、ヴァイオレットに会うことを拒絶するというのは、(結局ホッチンズに「馬鹿野郎」と言われ、兄の大佐に色々言われるものの)テレビ版に比べれば、理解も納得もしやすい。

 テレビ版では大佐に「人を殺した手で手紙を書くのか」と問われ、目の前で死んだ兵士を見たことで、ヴァイオレットはそれまでの自分の在り方と、これからの自分の在り方を考え、再び戦争を起こそうとする兵士と戦うことを選んだ。『劇場版』冒頭でもヴァイオレットは、市長に対して、過去を踏まえた自分の在り方というものを述べている。

 そう考えれば、テレビ版では「過去の存在」としてしか出番がなかったギルベルトが、『劇場版』になって自分の過去というものを意識し、それに基づいて現在の自分に対する答えを出していたので、この点は満足した。

 思うに、ギルベルト少佐というのはかなりナイーブなのではないか、と思う。自分が正しいと思ったことには頑なだが、自分を離れたこと(軍の任務とかエカルテ島とか贖罪とか)については無批判というか。それでも、ホッチンズ、島の老人、兄の言葉を経て、ヴァイオレットの手紙を読んだことで、ようやく自分に素直に向き合えたようなので、ギルベルト少佐というキャラクターに関しては『劇場版』でようやく補完がなされたというべきか。

 一点、野暮を承知で言い添えるとすれば。TV版でヴァイオレットは思いを伝えること(=自動手記人形としての仕事)を生きる理由として見出したように思える。そのヴァイオレットは、『劇場版』で少佐に会いに来るも拒絶され、ユリスが危篤にある只中、愛する人か自分の果たすべき役割かという二者択一のような状況に置かれていた。劇中、ヴァイオレットは後者を選択した。

 ただ結果的には、ヴァイオレット発少佐宛の手紙と、ディートフリートの後押しが重なり、ギルベルトの改心が起こったため、二人は再会した。ヴァイオレットはC.H郵便社を辞め、エカルテ島の自動手記人形となる。周りの人々の協力や理解が得られたから(それまでのヴァイオレットの行動の結果)、どちらかしか選べない選択しを両方叶えてしまったことになる。その点を含めて、劇場版は終盤お伽噺的である。

 野暮を承知で言えば、これは「無理やりなハッピーエンド」だろう。または、折角のギルベルト少佐の"葛藤"と”贖罪”も、ヴァイオレットの”信念”と”覚悟”も、ハッピーエンドを前にして道を譲らされた気分である。

 よく知られた話であるが、ギリシャ語には「愛」という言葉が概ね4種類ある。エロース (性愛) 、フィリア (隣人愛) 、アガペー (自己犠牲的な愛) 、ストルゲー (家族愛) 。これらのうち、何を最も重んじ、何を最も美しいと思うかは人それぞれであり、比較不可能である。

 それでも敢えて告白あるいは告解するならば。私は、隣人愛が最も清らかで輝かしいものであり、尊ばれるべきものであると考えている。性愛は時に生を豊かにするかもしれないが、別になくても人は独りで生きていける。家族愛は必要かもしれないが、過ぎれば毒になるし、性愛にしろ家族愛にしろ、特定の対象や身内しか愛さない”愛”は簡単に独善と狂信に変わり、他者を害する。その点、自己犠牲的な愛は個人が自らの意思で発揮するという点で、隣人愛の次に美しいと感じるが、得てしてそれを行うものが限度を超え、隣人を顧みない弊があるため、隣人愛には劣後すべきである――。そのように私は信仰している。

 故に、私はこの物語を最後の「再会」までは高く評価するが、そこからは評価しない。好きではない。ヴァイオレットもギルベルトも、己のエゴを前に、捨てたものがある。捨てたというのはあくまで比喩。実際は、「優先した」が正しいだろうか。私は、昔から己のエゴ(性愛・家族愛)を前にして、他者や周囲が劣後する(隣人愛が捨てられる)光景が好きではなく、厭わしく感じる人間なのだ。たとえどんなに美しく飾り立てようと、結局それは己の欲を全面に押し出し、周囲を踏みにじる行為に他ならぬのではないか。「わたしの特別なもの」で「特別ではないもの」を蹂躙することではないか。そう考えてしまう。

 いや、これではもはや『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という物語から離れてしまうため、切り上げるとしよう。

 

 最後に。『劇場版』ではテレビ版で登場したキャラクターが、全員というわけではないが、何人か再登場している。その関連で思い出したが、テレビ版は5話~7話が良いと自分は思う。特に、7話の戯曲家オスカーの話。9話も良いのだが、やっぱり5~7話の方を選びたくなる。

 これも昔からそうなのだが、1クールアニメで例えれば、①3話目から10話目までは主人公が観測者・傍観者・狂言回しで、②最初の1~2話と最後の1~2話で主人公自身の話が展開される系の物語を見ると、①はめちゃくちゃ好きだが、②は微妙に感じることが多い。TV版の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』もそうだが、最近だとTV版の『プリンセス・プリンシパル』とか(こちらは最後2話のみが当て嵌まったが)

 

 

*1:なお、途中で放棄したようにしか見えない『オーウェル評論集』について。ほぼ8月中には書き上がっていたのだが、いくつか調べたいことがあったのと、現実での忙しさから今しばらく後回しにしたまま、という次第。そもそも当ブログに需要などあるかは不明だが。。

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  APEX LEGENDSシーズン5(ランクシリーズ4)で、スプリット1・スプリット2ともに完全野良でダイヤⅣに上がることができた。結局ハンマーないまま野良でダイヤ帯にあがってしまったことになる。頑張れば強い人一杯の東京サーバーだろうと野良専門だろうと何とかなるらしい。APEXは立ち回りゲー

 

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