苦雪のブログ

本やゲーム・映画についての感想を備忘録代わりに時折書きます。基本敬称略。

劇場版『閃光のハサウェイ』

 

 

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©創通・サンライズ

 

 

 延期に次ぐ延期を経て、ようやく公開された『閃光のハサウェイ』劇場版第1作目。原作上巻の映像化にあたる。観賞した印象としては、良くも悪くも文句の付け所がなさそうな作品であった。おおむね原作に沿いつつ、支障のない範囲で改変等をしているので、「解釈違い」とか大不評を起こすようことはないが、さりとて扱ってる範囲が原作上巻部分なため、やらかしようがなかったとも言える。

 とはいえ、原作上巻で読みにくい・分かりにくかったホテルから逃げ惑うハサウェイとギギ、混乱に陥る街並みの描写、多面的なギギの描写などは程よくブラッシュアップされていたので、全体としては良い映画だったと思う(ところで何でカボチャ頭のアイツ、ポスターにいるんだろ)。

 率直に言えば、映画前の予習も兼ねて、5月に閃光のハサウェイの原作を読んだときは、良くも悪くも全体が脚本的で小説としての面白さが阻害されている感じも否めなかった。先に述べた、ホテルから逃げ惑うハサウェイ・ギギの下りなどは読みにくくてしょうがなかった。そういった部分が、映像化と描写の付け足しによって、鑑賞に堪えうるものとなったのも確かである。

 現に、マフティーによるホテル襲撃と対する連邦軍、それに対して逃げ惑う群衆の下りは、本作の1つの目玉と言うべきと思う。MSのビームがビルに直撃して建物が崩壊し、落下物が降ってくる様。ビームの拡散が建材を溶かす描写。目と鼻の先でMSが吹っ飛んでいく様などは、結構ヒヤリとする。メッサーやグスタフ・カールといったMSですら人間視点では脅威であるというのを落とさずにいてくれたと思う。その意味で、劇中最終盤のクスィーvsペーネロペーが際立つ。

 

 先程は「可もなく不可もなく」と言った感じで書いたが、本作は映像化に際して、原作にあった連邦vsマフティー(正確にはマフティーの名を騙るものも含む)のどっちにも味方し難い感じをそのまま再現してくれたという点では安心した。

 ギギによる「マフティーのやり方正しくないよ」等はさすがに落としてはいけないので当然にしても、マンハンターから逃げるハサウェイがタクシー運転手と世間話がてらマフティーの話をして、その際運転手から(地球環境とか1000年後の地球とか考えるマフティーは)「暇なんでしょ」と言われるシーン、劇中のマフティーの電波ジャック時市民が悪態をつくシーンなどがしっかりと入れられていた。

 特に原作のタクシー運転手との会話、特に「暇」という単語は、劇場版逆襲のシャアアムロの「革命は~」云々みたいなのを彷彿とさせるのもあるが、マフティーのやってることが「本当の意味で人々に支持されていたのか?」という部分を少なくとも読者に促す意味があったと私は考えているので、劇場版で再現されていて安心した。

 小説でハサウェイはシャアの思想や軌跡を学び、地球保全という一点のみシャアが正しかったという結論に達した。しかし、このタクシー運転手との会話で示されていた通り、ハサウェイはアムロがシャアに向かって言った「革命はいつもインテリが始めるが、夢みたいな目標を持ってやるからいつも過激な事しかやらない」という言葉がそのまま当てはまる人間になってしまった。何だかんだ地に足の付いた個人主義・漸進主義・性善説(こちらは通俗的な意味でのそれ)的なアムロに感化されていれば、ハサウェイも違った人生だったのだが。

 

 今回の劇場版でも描かれていたが、マフティーと連邦、正直自分はどっちにも与し難い(これは原作からそうだったが)。いくらマフティー大義を掲げようと、劇中で既に18人の閣僚を粛清し、作戦上「閣僚たちが泊まるホテルのある街」を襲撃し、ホテルにビームライフルを撃ち込んだり、盾にしたことに変わりはない。そして連邦軍も対テロリストという名目とはいえ、街を背にしたガウマン機に即座に躊躇うことなく、街中に発砲である。このときのガウマンの「正気か」というセリフは、一種のシュールな笑いを誘うが、マフティーも連邦もどっちも正気ではないことは明白であると共に、ガウマンには(残念ながら)そんなことを言う資格などないのである。

 劇中ではケネスがガウマンを拷問するシーンが描かれていたが、原作中巻には報復からMSで(正確な数字は微妙だが)万にも登る人々を虐殺した連邦軍なども出てくる。そして下巻は言わずもがな。

 体制の護持のためならいかなる非道も辞さない権力VSそこに居たというだけの無関係の市民を巻き込む作戦も辞さない叛乱組織という点では、FF7Rの描写を思い出した。

  

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 もちろん閃光のハサウェイとFF7Rとではその描き方も観賞した側が抱く印象も大きく異なる。まして閃光のハサウェイの舞台は、少なくとも地球連邦という圧倒的な存在が相手に対し、FF7Rはあくまでもミッドガルという大都市を支配する一企業の神羅カンパニーが相手。FF7の世界と異なり、宇宙世紀世界は、ほぼ地球か宇宙(コロニー)かという選択肢しかない点で安易に比べるのは戒むべきである。だが彼我の違いはあるとはいえ「どっちにも与し難い感じ」を多寡はあれど抱くというのも確か。

 とはいえFF7Rの場合、テロを起こす側であるアバランチの事情、個々のメンバーの掘り下げが行われた上、作中でもテロ行為の被害は明確かつ甚大なものと描写されている。加えて、アバランチの活動自体が本当に必要なことなのかという点も随所で問われるようになっている。悪役の言うことであるが、プレジデント神羅からは「神羅なき後のビジョン」を考えているのかと痛い所を点くセリフもあった。おまけにアバランチの活動の報いとしての(というよりは神羅による無差別的な見せしめ行為、政府組織ではないが白色テロに近い)7番プレート崩落なども行われたという点で、テロとその帰結についてはFF7Rの方に一歩譲る。

 この点、今回の閃光のハサウェイ劇場版は原作小説の構成故ということもあるが、ハサウェイが既にマフティー(テロ組織のリーダー)としてある時点から始まることが大きい。作中マンハンターによる人間狩りが行われていることから、地球内部での格差が著しいこと、不法滞在者狩りを名目に連邦が弾圧政策を布いていることは明らか。

 しかしマフティー側が無関係の人を巻き込むテロ・叛乱を行ってでもしたい大義とは何か、その活動やもたらされるものに対する作中の反応等を見ると、どうだろうか。

 この点、マフティーは地球再生を掲げる。しかし、私は原作小説を読んだときから疑問に思っていたのだが、劇中マフティーをタクシー運転手が「暇」と評したように(あるいは逆シャアアムロの例のセリフのように)、それが本当に地球に住む人々に届いていたか・支持されていたか、は微妙なところだ。ましてや映画でも描かれたが、閣僚を既に18人殺害し、ダハオの閣僚の泊まるホテルにビームを撃つ、ダハオの市街地を盾にし連邦軍が発砲すれば「正気か!?」と言う(盾にすること即ち撃つか撃たないかで言えば撃たないよりの二択を相手に強いる人質作戦である)……。

 映画では、マフティーの演説に市民が悪態をつく描写があった。地球に住む人は多様であろう。連邦政府の閣僚や官僚のような人、一般市民・労働者、貧困層・不法居住者etc。一口に階級や階層で括ってみても、その実態は単純でなかろう。エリート層とされる閣僚と、連邦の官僚、一職員。その中でも色々いるだろう。地球を離れたくても離れられない人だっているだろう。仕方なく地球で生きる人もいるだろう。それこそダハオの市民のように。

 こういった点を考えると、マフティーが本当に支持されていたのか? という点は疑問に思えてくる(コレ自体は富野の小説がそう読める余地を残していたということだろう)。

 

 

 さて、話を戻すと。気になるのは、今後公開される中巻・下巻の映像化をそのままやるのか?という点。私個人としては原作そのままにすべきだと思う。ハサウェイが生き残るという結末は、Vガンダムカテジナよろしく、ハサウェイにとって死ぬよりも辛い目に遭うことと同義だが、それを言うとハサウェイは原作で「幸せに死んだ」ことになるのが何とも。

 映画本編では逆襲のシャアとの繋がりは、クェスがハサウェイの元から離れるシーン(最新映像で描かれるアムロとシャアの大人のプロレス)やアクシズショックのシーンのみだった。そのため、ハサウェイがチェーンを殺したことをどう受け止めているのかはボカされていた(一応映画の逆シャアの続きのはずだが)。

 原作小説はベルトーチカ・チルドレンの続編なのでハサウェイはクェスを自ら殺めている。そのハサウェイがマフティーになるのと、チェーンを殺したハサウェイがマフティーになるのは、大きな違いだと思う。現時点では不明であるが、もしハサウェイがチェーンを殺したことを何とも思っていないまま、マフティーをやっているとすれば、このハサウェイは口では自分の行いが悪だと分かっているつもりでも、「本当の意味で自分が地獄行きの外道だと理解していないハサウェイ」なのかもしれない。

 私は原作のハサウェイが何だかんだ好きなのだが、それでもハサウェイには地獄に落ちて欲しいと思っている人間である(その意味では、原作の銃殺刑でハサウェイは自分の行いの帰結については考えなくていいという意味で救われてしまっているし、地獄に落ちているのはノア一家なのだが……)。

 なのでぜひとも映画のハサウェイも最後は地獄に落ちてほしいのだが、これは映画スタッフの考える「ハサウェイにとっての結末」が何かによるだろう。願わくばそれが納得できるものであることを。

 

 ここからはいくつか余談じみた話(既に余談みたいなものだったが)。閃光のハサウェイの劇場化に際しては、声優交代でかなりざわついていた。かくいう自分も、原作を読んだのは最近でもゲーム等で佐々木望版のハサウェイに馴染んでいたから驚いた。だから声優交代を惜しむ気持ちを分かる。

 しかしそれと同時に、当初から不安はありつつも小野賢章版も悪くはないでは?と感じていた。そしてこれは原作小説を読んで益々実感した。

 例えるなら、佐々木望のハサウェイは「自分が地獄に落ちることを自覚し受け止めたハサウェイ」、小野賢章のハサウェイは「自分が地獄に落ちると思っていないか、まだそれを本当の意味で分かっていないハサウェイ」である。

 思うに原作小説のハサウェイは、下巻でビームバリアを食らって全身火傷を負うまで、「自分が地獄に落ちること」を分かっていなかったのだと思う。なにせその時点までは彼は、ギギのこと=作戦から帰った後のことを考えていたのだから。自分に待ち受けるのは死であるというのは、一方では己の運命を理解することでもあり、後のことは考えなくても良いという逃避・諦観ももたらす。

 そう考えたとき、原作小説の大半のハサウェイにある様々な雑然としたもの。ナイーブさ。エリート・インテリ臭。頭でっかちな所。ギギやケリアなど女性に対して抱く劣情。クェスへの苦い思い出。使命感etc。そういった人間としての複雑で多面的な、少し胡散臭い所は「まるで自分の結末すら知っているかのような佐々木ハサウェイ」よりは「まだ自分の行末を知らない、考えてすらいなさそうな小野ハサウェイ」のほうが再現できていると思った。流行りの言葉で言えば、佐々木ハサウェイは好きなのだが、どうにも二週目感が漂うのだ。

 小説でハサウェイは自らのうちにある「欲」から解き放たれて解脱することを企図していた。佐々木ハサウェイはビームバリアーで全身火傷を負い、死が間近に迫って、はじめて内にあった欲とか未練とかの一切の憑き物が落ちたハサウェイの印象がある。逆にそれ以前の欲とか諸々に囚われていたハサウェイは小野ハサウェイが相応しいと思う。

 これで劇場版でもビームバリアーを食らってから、佐々木望ボイスになったら面白いが、まぁそれはないだろう。1作目の劇場版に佐々木望いたし。(関係ないが、原作上巻・中巻にやや不満のあった自分も、原作下巻とりわけビームバリアーからは惹き込まれた。特にハサウェイの処刑が決まり、ハサウェイの死に涙する看護師の描写は、必見である。特にリンゴを巡るくだりは、真に迫るものがある)。

 

 他のキャストについても不満はない。特にギギの再現度は高い。今回の映画は、ファートインプレッションでは神秘的≒ニュータイプ風に見える奔放そうなギギが、実は俗な部分に塗れてたり、衝動的だったり、感傷的という普通な人間であることをしっかり再現してくれていたと思う。特に、ホテルの崩壊から逃げ惑い公園にたどり着くところは、オリジナルシーンもふんだんだったが、恐慌をきたすギギがハサウェイの手から逃れようと錯乱するところは、花丸級だろう。ついでに、その後ケロッとしている所も含めて、ギギをこの上なく人間らしくしてくれた。

 ただ今回の映画でもバウンデンウッデン伯爵の愛人であると言及されていたのだが、中巻以降の映画化でこの点がどう扱われるのかは気がかりである。原作でこの箇所に触れられている部分は、正直軽く引いたことは否めない。地の文等ではギギが伯爵に対して憐憫等の感情を抱いていることが書かれていたが、それを差し引いても正直気色悪さを伴うシーンだった。一度ギギが香港に戻ってからの下りは、映像化でどう描かれるのか不安でもある。そのまま無批判に描かれるのはちょっと……となる。

 あれあってこそギギ……とは思うもののギギの魅力・個性というものは内に秘めた孤独や渇きと同時に、他者に向かう真摯さやハサウェイに対する明確な意思表示にある。とりわけマフティーとしての己、クェスに対して苛まれ、欲からの解放を求めるハサウェイに対して、欲・悩みそのものが人の証左であると諭すギギこそ、閃光のハサウェイで描かれて欲しいところなのだ。そこを没却して、「80歳の老人の愛人」とか性描写ネタでギギを語ることはして欲しくないと思う。

 富野由悠季の小説では、ララァが苦海出身だったりと性暴力を受けた女性が登場することも少なくない。閃光のハサウェイの小説でもハウンゼンの中で男性陣がギギに言い寄るシーンがあったり、映画でもあったがケネスがギギに「俺と寝ないか」と言ったり、と見てて気分が余り良くない描写は少なくなかった。この点は富野作品の好きではない所。

 しかし、富野由悠季自身がララァやギギを”娼婦”とか”金で買われる女”と言わんばかりに罵倒したり、と性的な面での女性の過去やバックボーンを茶化したり、その手のネタや男の好事家趣味を満たすような意図で、そういった設定を取り入れてはいなかったと思っている。しかし、富野はそうでもそれ以外の受け手(制作側・視聴者両方含む)がそうとは限らない。その辺りの描写にどう向き合うかには正直不穏なものを抱く*1 

 一点、不満を述べるなら。アムロの声は伏せておくべきだったと思う。原作小説にある「身構えているときには死神は来ないものだ」を、アムロからハサウェイへの呼びかけにするという改変だが、これは予告にも使わず、ポスター等の出演でもアムロの存在を伏せるべきであったと思う。多分、アムロの存在なしに劇場に行っていたら、今これを書いている私は絶対に「閃光のハサウェイで鳥肌が立った」とか褒め称えていただろう。

 次回がいつ公開になるかは不明だが、果たして結末等はそのままなのか。できればクワック・サルヴァーなど原作でも曖昧な所は改変・オリジナルは構わない派なのだが、ハサウェイの行く末は何とも言えないな立場。何はともあれ待つしかないのだが。

 

 

 

 

 でもそれはそれとして劇場限定版BDと豪華版パンフレットは買う(佐々木望朗読による閃光のハサウェイを人質にとられたからしょうがない)。

 

*1:6/19日追記。どうやらまさにその恐れていたことが起こったようだ。https://twitter.com/gundam_hathaway/status/1405875540523773956

公式が一部のファンのこういった悪ノリめいたものに安易に乗っかることは、いくら原作小説へのリスペクト等を述べていても、白々しく聞こえてしまいかねない。