苦雪のブログ

本やゲーム・映画についての感想を備忘録代わりに時折書きます。基本敬称略。

『るろうに剣心 最終章 The Beginning』

 

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(C)和月伸宏集英社 (C)2020 映画「るろうに剣心 最終章 The Beginning」製作委員会

 

 観賞後にどっと体力と気力を持っていかれたことに気がつくような映画だった。さすがに、実写版るろうに剣心だけあって、期待に違わぬ内容であった。

 もっともThe Beginningの内容それ自体は、原作およびOVA『追憶編』の展開を知っていることもあり、いくつかのアレンジ等はあれど予想の範囲内に収まった。以下は、若干の蛇足めいた四方山話である。

 

 (前回↓ The Finalについて)

 

bitter-snowfall.hatenablog.com

 

 

 開幕から余談めいているが、私は基本的に「必要がなければ無理に感想を言う意味はない」派である。面白いけどそれ以上何か付け加える必要性がなければ、せいぜい面白かったくらいで止めればよし。それ以外で何か言いたいことがあれば(ポジティブなものにせよ、ネガティブなものにせよ)、そこを言語化していけばいいというスタンスだ。

 それが本人(この場合は私)にとってどうしても言いたいことであるならば、言えばいい。言語化や分析には根気も時間もかかるし、結局絞り出した言葉が見かけ上他人の使う言葉と何ら変わらないときもままある。けれど、拙いながらも出力したものは多かれ少なかれ「それと分かるものだ」。そんなオカルトめいた感覚を実は信仰しているところが私にはある。

 より直截に言えば、私はTwitterにしろ読書メーターにしろ、誰にでも書けるような(それこそフォーマットとか内容そのものをコピペしてるような)テンプレ感想とか、結局何が言いたいのかも分からない言葉を並べたものとか、便利な面もあるかもしれないが所詮ただの思考のショートカットにしかならず、他者との間で意味合いの合意がとれないまま何となく伝わっているような言葉が嫌いなのである。

 その観点から言えば、The Beginningの大半は取り立てて語る必要性がない。これは悪いという評価を与えているからではなく、比較的良い評価を与えているからこそ、である。 

 例えば、鑑賞時に思いついたこととしては、①色彩面での対比、②The Beginningから実写版・無印へのリンク、③『追憶編』からの継承とアレンジがある。

 まず①。剣心の着物が黒、巴の着物は白というように、基本的にThe Beginningは色彩面での対比が多い。単純な明暗とか光の当て方も含むが、例えば剣心が座って手についた血を洗っている→巴が立ったまま剣心へ手を拭うための絹を差し出す(このとき巴にだけ光があたり陰影と白黒が強調されている)。他には花がカメラに映ることも多い。

 ②については、冒頭からしばらくして無印の清里との下りが流れたり、ラストが実写・無印の鳥羽伏見の戦いだったり。こういった構成面にとどまらず、同じ斎藤一の「これで終わりと思うなよ」というセリフが違った意味に聞こえるという心憎い演出にもなっている。

 ③について。原作に漫画だけでなく、OVAの『追憶編』も併せて挙げられている。基本的には、『追憶編』を彷彿とさせるシーンや演出が多い。例えば、大根とか剣心の表情に対する巴の一言、巴と剣心のやり取り。

 十字傷はOVA同様、巴が自らの意思でつけたという解釈。しかし、本作では巴が剣心の頬に傷をつける際、剣心が巴の手を握るように添えるシーンとなっている。これはパンフレットに記されているのだが、今回のThe Beginningでは巴が意図して剣心に十字傷をつけ、剣心もそれを罪の証(まさしく十字架のようなものとして)受け入れたという解釈を採っている*1

 他に注目すべきは、原作・OVAともに印象的な「巴が緋村抜刀斎の”鞘”になる」云々というセリフ。OVAでは最初に桂小五郎が巴に「緋村という抜身の刀の鞘になることを」依頼するのに対し、The Beginningでは桂はむしろ巴が抜刀斎の弱みになることを警戒している節が途中まであり、映画では”鞘”という言葉は巴が自発的に言い出した形になっている。これは巴の人物像という点でも、OVAと比べて見過ごせない点だろう。例えるならOVAでは巴は陽炎のような感じで、最初から正体がつかめない雰囲気だったのに対し、実写版は明確な意思と存在を持つ巴でありながら、その奥底(清里・闇乃武との関わり)部分は見せないという点が特徴と言えるだろうか。実写は、巴が抜刀斎に対して何か意見を表明することが多い。

 関連して、桂小五郎も原作・OVAに比べ、後の政治家・木戸孝允っぽくなったと言うべきか。温和だが本音や真意がどこにあるのか分からないような感じが常にあり、剣心を気にかけていながらもどこか距離のある様子として表現されていた印象。OVAでは剣心との別れ時に剣心を抜刀斎にしたことに対する後悔と慙愧の念を述べる旨の独白があったりしたが、今回の実写では何か言いかけてそのまま立ち去る、といった具合に。この辺りは意図的だろう。

 鞘云々が、桂からではなく巴が言い出したことになっているのもそうなのだが。桂と巴が初めて接触するシーンでは、桂は巴に対して「あいつ(緋村)の剣を鈍らせないでやってくれ」と言う。実写版の桂は、基本的に「人斬りとしての剣心」を第一に考えていたということであろう。それは、高杉晋作からの忠告に対して忠実であったことの証かもしれないが、策略家としての桂が意識されていることも間違いではないだろう。

 逆に踏襲されたのは、これもパンフレットに拠るが「幕府側のロジック」を描くという意図から闇乃武の辰巳のセリフが、OVAから引用されている。ここにそれを引くと、「家族を守り、国を守るのが幕府の役割」「国が安定していなかったらか、家族なんか守れないし、好きな女だって幸せにできない。だから俺たちは、徳川300年の歴史とこの体制を、命を懸けて守るんだ」、と*2

 パンフレットでは続けて、大友監督の次のような言葉が記される。「幕府の統治下ではあったけれど、日本独自の自由の概念はあった。士農工商の定められた身分の中で、本音を心の中に隠しながら、統制の中で幸せを見出しながら、生きていくのが当たり前だった。見方によっては、(中略)抜刀斎や、その裏で糸を引いている長州藩の一部は、社会秩序を乱すテロリスト集団のような存在です」*3

 興味がある方は、幕末~明治期を扱った研究書の性格が強い新書を読んでみるといいかもしれない。この点ではやはり中公新書辺りがいいだろう。例えば、刑部芳則『公家たちの幕末維新』(中央公論新社、2018年)では、当時の流行りの尊皇攘夷思想にシンパシーをいだき、京都内に出入りする尊皇攘夷派(いわゆる志士・草莽ら)と交際し、幕府果ては(天皇も含む)朝廷上層部にすら強気に迫る若い世代の公家たちの姿が描かれている。

 一口に公家と言っても、そこには家格というものがある。上から摂家清華家
大臣家羽林家、名家、半家。この家格に応じて朝廷内で就く役職が決まっていた(例えば、摂家は摂政・関白・太政大臣に就任できた)。このうち幕末に尊皇攘夷にハマったのは、摂家清華家といった公家の中でも上層というよりは、羽林家・名家といった中下級の層である(維新後要職に就く岩倉具視羽林家出身である)。中下級の公家らが尊皇攘夷思想の下、朝廷内で台頭し、志士とも繋がりを持ち後ろ盾にもなったりするし、幕府・朝廷(果ては当初は攘夷派だったが後に考えが変えるようになる孝明天皇)すら振り回す。以上はあくまでも私なりの上記書の読解であるため、詳しくは各自参照して欲しい。

 ところで、上記『公家たちの幕末維新』を読んだとき、現代的な感覚の私などは正直当時の公家たちに、”ドン引き”しまったことを告白する。尊皇攘夷派の思想に受け付けないものがあるというのもある。百歩譲って、志士の場合、統治者の側ではなくむしろそれを破壊するテロリストであるものの、自分たちの思想や目的実現のため”現場”で刃傷沙汰を担い命を賭けているという点で、まだその立場は分からなくはない。

 公家たちは、はっきり言って日々の政治とか実務とかは知ったことではないが、幕府らに対しては攘夷をやたらと迫る。その上、血気盛んで意気軒昂。つきあわされる幕府の重鎮につい同情した覚えがあるし、かつては自分たちも攘夷派でありながら、徐々に現実路線になっていったり軌道修正を図るようになる朝廷上層部が過激派に振り回されていく様は、喉の奥あたりに苦いものがこみ上げるものがあった。

 大分話が逸れたが、大友監督の言うことも何となく察していただけるのではないだろうか。少なくとも幕府にとって、現場(諸外国との折衝とか統治とか治安維持とか諸々の安定)の苦労も知らないで、口ばっかりで過激で極端な思想(攘夷)ばかり言う公家などは目の上のタンコブ的なものだったのかもしれない。しかし、勝てば官軍。勝った側にいればいいかもしれないが、その過程で犠牲になった人々は溜まったものではない――。

 監督の言うこと自体を否定するつもりはない。しかし野暮を承知で言えば、これ自体原作ならびにアニメでも描かれていたことである。それこそ相楽左之助(赤報隊)、十本刀の面々、あるいはアニメ『維新志士たちへの鎮魂歌』で描かれたように旧・幕府側の藩。維新の負の面、そして真の維新の実現(原作でのこの言葉は、例えば人間の解放とか身分からの解放とか色々内包されているだろう)が未だ成されていないことは、原作・アニメ等でも無視されていたわけではない。

 更に言えば、闇乃武の辰巳のこのセリフ、ツッコミ待ちであろう。他ならぬ辰巳自身が”大義”を振りかざして、弱者(巴や縁)を利用し犠牲にしている。

 ただ、実写版と原作ではニュアンスが微妙に異なっていることは指摘すべきかもしれない。実写は、後の維新政府側こそが、当初は秩序を乱す側であったことを明確に書いている(「わかりやすさ」なるものを重視した言い方をすれば、いわゆる”大政奉還”後、薩長がクーデターを起こし、既存の秩序を覆した叛乱軍は勝ったから維新政府となり正しいとされたのだ、という前提)。これに対し原作は、実写と比べた際、むしろ双方の言い分と功罪相半ばする様、どちらが正しいかを安易に判断できない様相を描いている、と積極的に評価できるかもしれない。

 先程、野暮といった。本来鑑賞者の多くはこのことは理解しているだろう。しかし人間とは案外、分かっていても中々気づかないか見過ごしたり、意識外に追いやってしまうことも度々ある。だから野暮を承知で書いた。

 そして、野暮を続ければ大友監督の「幕府の統治下ではあったけれど、日本独自の自由の概念はあった。士農工商の定められた身分の中で、本音を心の中に隠しながら、統制の中で幸せを見出しながら、生きていくのが当たり前だった」という発言は、少々不味いのでは、と思った。

 過去に向き合う者が、過去の悲惨で非倫理的な様を非難すべきではないとしばしば言われる。が、参与観察や現地調査をする社会調査研究者とかが言うならまだしも、上記のような文脈での言明は、結局の所ただの通俗的逆張りか悪しき相対主義に回収されてしまうものでしかない。実際は断言・言い切りなどできるものではない。ましてや現代では、片や文化相対主義が絡むと思えば、片やオリエンタリズムのような問題もある。そう簡単に断言できるものではないのだ。

 実際の過去に向き合う研究家や調査者は、一方で現代の視点に立つ外在的な理解を試み、もう一方で過去のそれに内在的な理解を試みる。「現在の立場で過去を裁くな」が成り立つとすれば、他ならぬ己自身が今に生きる人間であることを自覚した上で、それでも過去の出来事を内在的に理解しようとする――「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」*4を試みるからこそ活きる言葉(戒め)の類だからであって、現代に生きてその恩恵を受けながら、一番肝心なことを忘れるような物言いをするのは本末転倒であろう。ついでに言えば、「日本独自の自由の概念」とか「統制の中で幸せを見出しながら、生きていくのが当たり前だった」などは非常に不味い表現である。

 

 さて、冒頭で書いたことを踏まえれば、他にわざわざこの場で私が言うことなどないだろう。実写・るろうに剣心は美術に関しては白眉と言うべきで、本作The Begining終盤の雪の中の決戦は文句なし、である。剣心が五感を失う中、戦う様は真に主演・佐藤健だから為せた局地であろう。況や、主題である巴との関わりはもはや不満などない。全て満ち足りているからこそ、とりたてて語る必要はないのである。

 冒頭、抜刀斎が男の首に噛み付いて肉を抉りとるシーンに始まり、抜刀斎時代の剣心は原作に比べても残酷さ・陰惨さを強調されているけらいがある。低い姿勢から突きを連発する沖田総司に対して、時に正面から時に受け流すように相対する抜刀斎というのは双方の格を落とさない描き方であったと思う。そんな巴との関わりの中で剣心が笑顔を見せ、少年のような笑みを浮かべ、闇乃武との戦いでは「手段を選ばぬ」闇乃武を前に、あたかもかつて自身が斬っていった人間のように受け身な剣心――。

 ただ細かい不満はある。せっかく沖田vs剣心という夢の対決をやったのに、なぜvs斎藤はやらなかったのか。この映画は新選組の存在感が強いだけに、斎藤一の戦闘が牙突池田屋二階を破壊しただけなのは惜しい。OVAではエピローグで斎藤とも一応戦っているのに。追憶編のあのエピローグ的な演出が好きだっただけに、描かれなかったのは残念である(さすがに比古などは出せなかったのは分かるが)。

 

 以上。語る必要があったのかは不明だが、鑑賞後思ったことを述べた。The Finalと異なり、観終わった後、文字通り身体の気力を根こそぎ持っていかれたことに気がつくようなタイプの作品であった。これでとうとう実写版るろうに剣心も終わってしまった。もしかしたら、いつの日か北海道編の実写があったりするのかもしれないが、少なくとも暫くそんな話はないだろう。

 なんだかんだ実写版るろうに剣心は原作再現や原作要素という点で個々の不満はあれど、全体としては恵まれた映像化であった。特にThe Finalは私の中でも満足度が高い作品であった。それだけに、本作での完結と無印へのリンクという意味での始まりには微笑ましさにも似た感慨がある。

 

 

 

 

*1:パンフレットの大友啓史監督インタビュー参照。

*2:パンフレットのProduction Notes参照。

*3:同上。

*4: E.H.カー、清水幾太郎(訳)『歴史とは何か』(岩波書店、1962年)40頁