苦雪のブログ

本やゲーム・映画についての感想を備忘録代わりに時折書きます。基本敬称略。

アマサカナタ『竜歌の巫女と二度目の誓い』、蒼機純『その商人の弟子、剣につき』

 

去年購入してからそれきりだった『竜歌の巫女と二度目の誓い』*1と、『その商人の弟子、剣につき』*2を読破した。

 両者とも、第12回GA文庫大賞の銀賞で、2020年12月に発売された*3。とりあえず一言で感想を言うなら、「概ね高水準のまま着地した『竜歌の巫女』」、「良さげな前半から一転、失速した『その商人の弟子』」といったところか。結果的に、好対照な評価となった。前者については作者の姿勢含め好ましく思えるが、後者については嫌悪染みたものを抱くほどに。

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アマサカナタ『竜歌の巫女と二度目の誓い』(SBクリエイティブ、2020年)

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蒼機純『その商人の弟子、剣につき』(SBクリエイティブ、2020年)

 

 

 

『竜歌の巫女と二度目の誓い』

 『竜歌の巫女』では、主演級の登場人物みなが過去に苛まれ縛られている。

ライトノベル」というレッテルで物事を語ることは得てして有害をもたらすが、本作は文体や描写こそ抑えめではあるものの、最初から最後まで「軽く」ない。

 本作は主人公のルゼ(メルジーナ)の前世、〈竜歌の巫女〉の最期の場面から始まる。悪辣な領主一族の血を引いたこと一点をもって、処刑されることとなった竜歌の巫女が、「全ての不義に、呪いあれ」(10ページ)と叫びながら、自ら魔術をもって首を刎ねていく。そして12年後、かつての記憶を有したまま生まれ変わったルゼが、自分を裏切った騎士ギルバート・ハーヴィの元へメイドとして仕えることになる。

 竜歌の巫女=ルゼの根底には、不義への怒りがある。この不義(理不尽)への怒りと、「それがもたらすもの」は、本作で形を変えつつも一貫して描かれていく。

 そもそも竜歌の巫女の死の原因である革命も、舞台となるファーレンを支配する領主の悪政という不義に憤ったハーヴィ兄弟が起こしたもの。本作は、革命から12年後のファーレンを主な舞台とする。ルゼに突きつけられるのは、自分が死んだことで生まれた平和な街・ファーレン(149ページ)である。

 もちろん革命の代償は、安くない。それどころか本作は一貫して、この”代償”というものを叩きつける。

 ギルバートは、血が繋がっているというそれだけの理由で竜歌の巫女を処刑した。その恨みで襲撃される(163ページ)。何の罪も犯していない少女を殺したやつを恨み、憎み、何が悪い。殺そうとして何が悪い。息絶える直前の男はそう叫ぶ(同上)。

 言うまでもなく、ここでのい名も与えられぬまま死んだ男と、ルゼ、そして物語の終盤のオズワルド・リュッセルは似た者同士である。

 ルゼの心の中にある「罪の贖いを望むこと」と「世界へ復讐を望むこと」(185-186ページ)の両方がある。

 

 復讐と贖罪と。

 その狭間でがんじがらめに縛られた心は、どちらに揺れ動くこともできない。復讐を望めば罪悪が邪魔をし、贖いのために生きようと思えば、燃えるような憎悪が心をむしばむ。どちらに転がることもできぬまま、呪われた心は縛られ続けた

 『竜歌の巫女と二度目の誓い』186-187ページ。

 

 この一節を読めば、作中で復讐を体現するのが名も知れぬ男を筆頭にした元・リュッセル家の人々であり、贖罪を体現するのがギルバートであること、そしてその両方をルゼが抱えていることが分かる。

 「想いってのは、どうにもままならない」(280ページ)。これはオズワルドの言葉である。人の心は時にはその人本人にも制御できない。

 かつて竜歌の巫女の家庭教師を勤めたアリス・リュッセルとその弟、オズワルド。前領主派だったリュッセル家は没落。姉弟は貴族位を剥奪され放逐された。行方をくらましたまま流行り病で死んだアリス。その末路を許せないと思ったリュッセル家の従者が復讐に走る。

 オズワルドの口から姉アリスの最期が語られる場面がある。

 

「ひどい有様だったよ。粗末な布団の上で苦しんでたのが、本当に自分の姉なのか、すぐにはわからなかった。生傷だらけの、まるで干物みたいに痩せた女だった。姉さんはオレたちに気づかなかった。もう半分死んでたんだろう。姉さんは泣き続けるだけだった」

 ――あの日、連れ出してあげるべきだったって。ずっと、そう泣き続けたのさ。

(中略)

「……(略)……後で調べてわかったが、誰も助けちゃくれなかったし、むしろ進んで迫害した奴もいたらしい。まともな仕事なんてなかったし、ろくに金も、飯ももらえなかった。殴られても、何をされても、誰も止めようとしなかった。やり返せばいいのに、姉さんは何もしなかった。そうして……誰にも助けられることもないまま、姉さんは一人で死んだ」

(中略)

「――相手が悪いわけではないってわかってても、許せないってこと、あるだろ」

 282-283ページ。

 

「――相手が悪いわけではないってわかってても、許せないってこと、あるだろ」。ルゼは、ギルバートのことを憎いと思っていても、その身が襲撃されれば身を呈して守った。オズワルドは、ギルバートの執事長として仕え続けた。オズワルドの相棒である竜は「わかっていても」ギルバートが許せない。

 不義への怒りが革命を生み、代償に罪なき者が死んだ。残された者の罪の意識は癒えることなく燻り続けた。自分で自分を許せないまま生きるギルバートは、己を殺したまま政務を執る。兄ガーランドは、「正しさ」を理由に弟の全てを奪ったことから、弟の「重し」となるものを排除しようとする(241ページ)。

 竜歌の巫女とアリスの死は、ギルバートとオズワルド、そして竜たちの心に傷を残した。ギルバートの怒りは己自身に向かったが、オズワルドや竜たち、そしてリュッセル家の人々の怒りは、他者へ向かう。

 怒りと罪の意識。『竜歌の巫女』は最初から最後まで、その話である。煎じ詰めると、それは人の心の話である。「許せない」や「怒り」「憎しみ」から始まった物語が、行き着く先。

 私は、この物語が人の心、不義への憤りが生み出すもの、それ自体がまた理不尽も生むこと、それらも含めて人の心の中に生まれる憎悪と贖罪の意識、赦しを請い、赦そうと思う感情を描いたことを評価するし、できる限り登場人物に対してフェアであろうとした作者に好感を持つ。ライトノベルという形態故、文章や文体もそれに相応のものとする必要があったと思うが、本作は結果的にそれが簡潔にして叙情的な効果を生んでいると思う。果たして、他の人は何を感じるだろうか。

 付け加えると、この物語は、「許せない」のようなネガティブな感情を決して否定していない。 そうしたネガティブなものが、新しい理不尽を生むとともに、使い方次第では誰かの幸福や平穏をももたらすことも描かれた。しかし、その過程で零れ落ちる人、切り捨てられた人々も存在する。本作は、そうした声なき存在にも目を配りつつ、「許せない」や「憎い」という感情を、それでも「許したい」という思いに変える(あるいは変わる)ということは、一体どういうことなのか。それを描いたと感じる。

 その点で言えば、次の『その商人の弟子、剣につき』に対して私の評価が低いのは、ここまで述べてきた視点というものが欠けているからかもしれない。

『その商人の弟子、剣につき』

 若き商人エドモンドは、戦場で喋る剣と出会う。剣は、自らを魔王の剣・ティファンと名乗る。喋る剣、それも人形にもなれると聞いて、テイルズ・オブ・デスティニーのソーディアンのようだ、と思いつつ読み始めた。

 ティファンは語る。自分は歴代魔王の愛剣であり、将来の魔王の剣である。しかし、自分は目覚めるべきではない故、眠りにつきたい――と。

 魔王が生まれる時、勇者もまた生まれる。しかし、勇者が魔王に勝った後、勇者は魔王以上の惨劇を生み出す。自らの覚醒がより大きな悲劇への先駆けとなるなら自分は眠ったままの方がいい。それ故、自分の眠る場所へと連れて行って欲しい。

 エドモンドを通して語れるティファンの意思と行動理念、エドモンドがティファンの願いを叶えたいと思うようになり、目的地へと向かう。ここまでが導入。

 作中登場する「人外」(要は魔物)から身を守るためには傭兵を雇う必要がある→しかし今の情勢では傭兵の良し悪しも大事だし、良い傭兵は当然要求額も高い。

 傭兵を雇う必要がある→雇うために最適な場所へと向かう→教えられた酒場で出会った傭兵団・首なし騎士団→しかしそもそも一連の流れ自体、自らを高値で売りつけたい(=足元を見つつ返済できなくはない高値で自らを売りつけようと企図した)首なし騎士団と団長ハクアの仕込みであった。ここまでの流れと、ティファンによる逆転に限れば(ページで言うと100ページあまり)、私の本作の評価は高い方。

 

 しかしそこからはいただけない。特に、魔王の剣の対となる勇者の剣デカルダと、勇者ガーザスの登場からは、有り体に言えば酷いと感じた。勇者と魔王の立場を逆転させる余り、勇者の描き方が酷い。端的に言えば、ただの逆張りにしかなっていない。

 まず、ガーザスの人となり、そして計画について説明しよう。ガーザスは誰にでも穏当かつ丁寧に接する。出会う人出会う人に慕われる。換金可能かつ特定の街のみで流通する貨幣を導入することで経済システムにまで介入する。果ては、それをいわば梃子に、陰謀を起こすことで国家間の疑心暗鬼と紛争を引き起こし、「魔王」を生み出すというのがガーザスのここでの狙い。そして、生まれた魔王を勇者たる己が倒し、理想とする世界を築こうとせん。これがガーザスの究極の目的。

 そのガーザスの根底にあるもの、それは「人外」という脅威を前にして、弱者を救うのではなく自らの欲望を満たすことのみを考え、他者を虐げるものへの怒り。差別・貧困といった人間の欲望の結果生まれる理不尽の解消である。本当に立ち向かうべき「人外」にではなく、弱者からの搾取や人間同士の戦いを強要する者たちを憎むし、善悪ではなく金のために生きる商人も嫌っている。

 それに対してガーザスは「人外」や貴族のような身分をなくし、人々と世界を統一したいと願う。例えその末路がティファンの語るような勇者による惨劇だとしても、己の願いを叶えたい(153-157ページ)。

 この部分を見て、私はガーザスの理念それ自体は別にそこまで否定されるべきではないのでは?と感じたし、エドモンドが「傲慢な絵空事」「人間は欲を抱く」から「絶対にまた争い」は(153ページ)などと言うのが、この上なく鼻についた。

 たしかにその後、エドモンドがいうようにガーザスの計画は、(犠牲を伴う)陰謀込であるし、魔王と魔王の剣・ティファンの犠牲も伴う(156ページ)。だが、私は作者が恣意的だなと感じたのが、エドモンドからガーザスに対する批判が、「ガーザスが人間の欲そのものをなくすつもりであるかのようにエドモンドが批判する」と印象操作していることだ。

 本文を読めば、ガーザスは「人外」とか貧困とか差別を前にして行き過ぎた欲が優先されることを否定したいと考えている。それに対して、やり方(陰謀・犠牲を伴う)を批判するのはいい。

 だがガーザスが「人の欲そのものを消し去るつもりであることをエドモンドが批判する」のは、作者が主人公の口を借りて、作品そのものに置いてしっかりと説明されていないことを使って、登場人物の考えを矮小化して藁人形論法しているも同然だ。これは不均衡・不適切な舌戦だ。ガーザス(勇者)側の理想を十分に描くどころか、悪意を持って貶めて、主人公側を持ち上げる手法を作者は用いている。

 そもそもこの”舌戦”、おかしい。「理想の実現のため、手段は問わない」「魔王を倒した後の人類は自分が導く」「私が正しいと思う価値観を人々に進行させるべく不及させる」というガーザスに対し、主人公が犠牲が出ることを指摘するのはまだしも、「人の欲望を否定するな」としか言わないのは、会話が噛み合ってない。別にガーザスは、人の欲望それ自体を否定していない。欲望の行き過ぎと弱者救済や「人外」よりも欲望の優先を問題しているのだ。

 それに対し、主人公は「人の欲望を否定するな」とか「傲慢な絵空事」と言い、挙句の果てには、主人公(と地の文)・ティファンはガーザスの人格や考えそれ自体も一々否定する。ここ10数年近く流行りの「正義の味方の薄っぺらさ」を指摘する下りと何が違うのだろう。元からフェアに描かれていないものを、否定した所で批判する側が正当に見えることなどない。

 ガーザスの「理想」を主人公が否定する様以降、この物語はどんどん転げ落ちていく。もちろん、最後の逆転のため主人公が考えた貨幣と経済システムを利用した作戦などは、この小説独自の味だと思うし、よく考えられていた(しかし地の文でも会話でも説明口調過ぎる)

 というより中盤から終盤に至るまで、ここしか「商人」要素がなくなる。おまけに、魔王の剣の鞘であるメアリ(こちらも人間形態になれる)の登場、主人公の師匠(女性。こちらは事前にそのことが示されていた)のデウス・エクス・マキナっぷり、最後のハクアの描写(あるいは主人公の妹弟子の話)などは、正直「凡百のラノベ」である。

 最初の魔王の剣との出会い、ハクアとの傭兵契約の交渉の辺りは、この物語独自の味を持っていて興味惹かれるものがあった。特にハクアとの交渉などを見るに、「魔王と勇者の話の逆張り」なんかに無駄なページを割くなら、もっと商人・経済要素を全面に出して、魔王の剣・ティファンの「新しい生き方」などに話しの舵を切っておくほうが良かったのではないか。勇者ガーザスに関しても、「敵役」として使うにしてもその方が彼の抱く理想含め、良い使い方ができたはずである。

 同じGA文庫大賞の銀賞である『竜歌の巫女』と『その商人の弟子』、既に書いた通り前者は高く評価できるが、後者には失望した。もはや『その商人の弟子』は、最初の100ページ余りまでとその後は、書いてる人間が別人か?と思うくらいだ。それくらい中盤以降の描写には不満がある。

 予め貶められているキャラクターとその役割。テンプレートでしかない(=書き手自身による細工のない)要素と展開。この作品が、本当に取り組むべきだったのは前半100頁余りで展開される商人の話である。「勇者と魔王」への見飽きた逆張りとか、ガーザスとエドモンドの噛み合ってない問答、増えていく女性キャラ、昔ながらのデウス・エクス・マキナ的存在の主人公の師匠などのライトノベルのテンプレに紙幅を費やすより、首なし騎士団との傭兵契約の下りのような明快さと率直さを持って、貨幣を組み込んだガーザスの計画に対して商人として対抗するエドモンドという本作の山場を描くことこそ必要だったのではないか。本作は、本来一番大事にすべきだった所が、おざなりである。

 

 付け加えるなら、『その商人の弟子』で問われるべきことは何だったのだろうか。私は次のように思う。

 まず、エドモンド一行はガーザスの「理不尽を憎む思い」というものをもっと汲むべきであった。たとえ作中の登場人物が明言しなくとも、彼らの態度は「欲がある以上、そうした理不尽が生じるのは仕方ない」といった”賢い割り切り方”そのものであった。率直に言えば、小賢しい・小狡い・姑息な物言いだ。

 本来、なされるべきだったのはガーザスの「理不尽を憎む思い」を汲み、「自分が新たに理不尽を生む勇者になるかもしれないことを承知で、理想を形作らんとする覚悟」に向き合うことであった。

 その上で、ガーザスが「目の前の弱者を救うこと」ではなく、「自分が弱者を生み出し、犠牲を強いる行為をしていること」を批判すべきであった。この点は作中、行われているかもしれないと思う方もいるかもしれない。確かに、一理ある。が、正直稚拙であった。エドモンド一行は、ガーザスの根底にある思い・理想・覚悟の一切に真摯に向き合うことなく、ガーザスを対等な相手と見ていない節があった。インターネット風のジャーゴンを表現すれば、”偽善者批判”と”それを行うもの特有の露悪”といった所か。

 確かにガーザスの犠牲を伴うやり方は、私も認めない。だが、現実に対して小賢しい発想で折り合いをつけ、”善人”とやらを批判したつもりになる主人公たちよりは、作者にカリカチュアライズされ、予定調和的に貶められながらも、なおも自らの思い・理想・覚悟を示したガーザスの方に私は遥かに好感が持てる。

 その意味で、『竜歌の巫女』と『その商人の弟子』は同じ年の同じ賞を獲得した作品でありながらも、真に対照的な作品であった。