2021年で印象に残った作品について。「書棚+α」としたのは、こういう表現をしておけば、とりあえず書籍を中心にしつつも、映画やアニメ等も範疇に含めていいことになるから。
一応のルールとして、基本的に2021年に日本国内で刊行・公開等されたものの中から選び、核心部分のネタバレは白字で隠す、ということにしている。
それと、各見出しでは基本的に原著者の名前『書名』という形式を採り、敬称略の上、翻訳者・イラストレーターの名前は割愛していることを予め断っておく。
- アレックス・パヴェージ『第八の探偵』
- 阿泉来堂『ぬばたまの黒女』
- エリー・グリフィス『見知らぬ人』
- ホーカン・ネッセル『殺人者の手記』
- 番外編:『るろうに剣心 最終章 The Final』&アマサカナタ『竜歌の巫女と二度目の誓い』
アレックス・パヴェージ『第八の探偵』
まずは、アレックス・パヴェージ、鈴木恵(翻訳)、『第八の探偵』。
おそらく今年のベスト。率直に言えば、わざわざ本作の優れた点を語る必要などなく、つまらない褒め言葉を上げるよりは黙ってた方がマシ状態なのだが、さすがにはここで挙げておいてそれはばかられるので拙いながらも頑張ることとする。
本作の特徴としては、7つの短編ミステリーを作中作として組み込み、個々の作品の真相に対する「解決」と共に、8番目に作者であるグラント・マカリスターに関する謎を提示していることだ。
かつて黄金時代を築きながら引退し孤島に隠棲している作家の謎。こうしたモチーフは、人気が高い。最近でも、2020年に翻訳が出たギヨーム・ミュッソ『作家の秘められた謎』などがある。そして、ミステリーの中に作中作をいくつか散りばめ、それらの解決後に物語全体に横たわっていた謎に対する解決もなされるというのも、これまた一つの王道とも言えるテーマ。国内では、三津田信三『作者不詳』がやはり外せない(三津田作品には、この手のものが多い)。
それらの先行作品や類書と比べた場合、本作の秀でている点は、①7つの作中作の多様さ、②個々の事件の解決と捻り方であろう。
しかし、一番の点は(以下、ネタバレのため伏せ字)7つの作中作に対する「解決」が実は偽の手がかりに基づいたフェイクであり全ての作品に別の真相が存在する、その偽の真相が編集者ジュリアによる即興の改変に基づくものであり、作家マカリスターは短編集『ホワイトの殺人事件集』の内容を知らないため偽の真相に誘導される、ここまで捻りを利かせた上で、更に作家マカリスターと”ホワイト殺人事件”の真実についても二段階の真相が用意されている、という何重もの捻り&多重解決形式であるという点だろう。
本作も、三津田信三『作者不詳』など先行作のように、「作中作の解決+物語全体における解決」という形態を取っている。しかし、『第八の探偵』の「解決」とそれを成り立たせた方法論は、破格と言う他ない。
おそらく私が何か言うよりも読んだほうがいい。そして、この作者の次作以降に注意と期待をした方がいいだろう(パヴェージはこれがデビュー作というのが驚きだ)。
作中作という点では、今年はアンソニー・ホロヴィッツの『ヨルガオ殺人事件』も出た。個人的には前作『カササギ殺人事件』のほうが上だと思ったので今回は未選出。
阿泉来堂『ぬばたまの黒女』
阿泉来堂は、2020年12月の『ナキメサマ』でデビュー。2021年6月刊行の『ぬばたまの黒女』は2作目である。
先に三津田信三の名前を出したが、阿泉の作風は三津田のそれを彷彿とさせる(あるいは、当人の思う所とは関係なしに、否応なく比較されるかもしれない)。ただ、ホラーとミステリーの間で、時には「真相」を意図的にボカすこともある三津田に対し、阿泉はそれが怪異によるものであれ人の手によるものであれ、はっきりと原因と因果の説明を行うことを志向する(ように見える)というのは重要な違いかもしれない*1。
阿泉の作品においては、怪異の脅威性(暴力性)が明確に描かれると共に、基本的な力関係は怪異>人間である。あまりそう感じさせる文体ではないが、割とスプラッターなことが文中では行われることも多い。
しかしながら、怪異の行動に対しても明確な原因・因果を設定し、いわば「怪異の行動原理」なるものを作中でも明確に組み込む――そしてそこに人間による働きかけ・人間の悪意による怪異の発生という明確な順序を指摘することもある、というのが特徴と言える。ともすれば、ホラーにおいては怪異の存在や行動というものは”そういうもの”として扱われがちな(それ以上は説明されない)場合もあるが、阿泉は怪異のメカニズム・ロジックを殊更重視しているとも言えよう。
阿泉の作品は読んでいて、気持ちのいい部分がある。これはバランス感覚だろう。読者が抱くであろうツッコミ、例えば「いや何か被害者ぶってるけど原因はこいつでは……」「いや事情があろうとそのやり方はダメだろ」的なものは、大概作中でなされている。
個人的に阿泉の作風で興味深いのは、ホラーとミステリーの境界に関する部分である。
ミステリーとホラーの融合、あるいは虚実の曖昧さというのは、しばしばミステリーでも扱われると共に多くの作家と読者を惹きつけてきた。ただ人間はワガママなもので、読者もあるいはひょっとすると作者の側も、既にその手の話には馴れている(言い方は悪いが食傷気味?)とすら言えるかもしれない程に。
ただし、既存作はともすれば怪奇(不条理・曖昧さ)の側からのミステリー(合理・真実・ロジック)への侵食とでも言うべき形態になりがちであったというのもまた確か。言い換えると、二項対立的なホラー/ミステリー概念を設定した上で、両者の関係性が一方的とまでは言えないものの、ミステリーの自明性や境界を侵食する概念としてのホラーというのが、これまでは多めだったようにも見える*2。
その意味では、怪異を始めから存在するものとして(メカニズムもロジックもあり実体も持つ)扱い、かといって論理や人間の世界もまた当然の如くあるものとして扱う(両者をなるべく対等な存在としてみなす)、という阿泉の作風は興味深い。ミステリーとホラーを片方がもう片方に挑戦する、または脅かす・駆逐する関係性としては描かない。両者を、異なるものとして正面から認めた上で、怪異にも論理は通じるし、論理の側も当然怪異を無視できないという、対等かつ別個の概念である故の働きと作用を展開しているというのは真に興味深い。
エリー・グリフィス『見知らぬ人』
エリー・グリフィス、上條 ひろみ(翻訳)『見知らぬ人』
この作品はタイトルが実にいい。絶妙。邦題が見知らぬ人(Stranger)という言葉を選択したのは最適であった。Strangerにはいろいろな意味があるが、この邦訳は実にいい。
原題は”The Stranger Diaries”……知らない人の日記で、これは作中において日記というものが極めて重要な要素であるから、こちらも決して外してはいないがやはり邦訳を知っていると、”The Stranger”の方がシンプルでいいように思えてくるから不思議だ。
しかしこの作品で繰り返し描かれるもの、そして真相を踏まえて考えると邦題を「見知らぬ人(Stranger)」としたのはベストであったと言える。
本作の特徴を挙げると、視点人物を適宜切り替えることで、当該人物が地の文では周囲の人間=知り合いには話さない自らのデリケートな部分(出自・悩み・恋愛、果ては秘密etc)を曝け出したり、各人のライフスタイルや価値観、ひいては他者からの見え方すらも異なることを示す、というものだ。
これが、家族であれ恋人であれ友人・同僚であれ、「見知った相手と思っているはずの人のことを実は全く知らない」という効果を狙っていることは明白だ。
そして(以下、ネタバレのため伏せ字)これは真犯人が明らかになった際にも妥当する。真犯人のタイは、主人公の視点からは非常に好感の持てる青年で、年の離れた恋人(主人公の娘)とも年齢を考慮して性的関係をもたないよう努めているという極めて真っ当(correctness)な人物に見えたのが、実は本当に懸想していたのは主人公自身であったことが明らかになるという印象の反転。それまで見知った相手だったはずのタイが、得体のしれない見知らぬ人に見える……この効果は絶妙。もちろん犯人特定のためのプロセスにもぬかりはない(例えば主人公の日記に書き込みをできたのは限られるため)。
ただ惜しむらくは、本作が「犯人当て」として受容されているのではないかという点である。(こちらは版元ドットコムの書影でも確認できるが)例えば、私の手元にある本作の帯には「この犯人は、見抜けない」とある。裏面の編集部の人の推薦文には「高難度の『犯人当て』を求める読者にとって、これほど贅沢な贈り物があるだろうか」との言葉がある(こちらは版元ドットコムの書影では確認できない)。
率直に言えば、私は本作を「犯人当て」として受容することに違和感がある。先に述べた理由に照らせば、本作のテーマは、「犯人当て」などよりも、「見知らぬ人」にあったと理解する方がより的確ではないだろうか。
もう一点。本作も怪奇作家ホランドの人生や邸宅・作品がモチーフとして扱われ、怪奇と現実の融合あるいは侵食というその手の人にはたまらない要素も途中までは出てくる。だがこの点は正直拍子抜け。というのも(以下、ネタバレのため伏せ字)作家のホランド周りの古き怪奇小説譚、主人公の娘の日常において精神的な面での影響力を高くも有する”教祖”ヒューズを巡る話(黒魔術のこと)等が、作中では結局単なる小道具かレッドシリング程度にしかなっておらず、怪奇と現実の融合・侵食というには物足りないからだ。
ホーカン・ネッセル『殺人者の手記』
ホーカン・ネッセル、久山 葉子(翻訳)『殺人者の手記』
スウェーデンのミステリー作家、ホーカン・ネッセルのシリーズもの。ネッセルについては既に長編2作品、短編1作品、共作1作品が邦訳されているとのこと((『終止符』(講談社文庫、2003年)、『悪意』(東京創元社、2019年)、「務めを果たしに」ミステリ・マガジン1998年8月号、「ありそうにない邂逅」『呼び出された男――スウェーデン・ミステリー傑作集』(ハヤカワ・ミステリ、2017年)))。私はカッセルの作品を今の所本作『殺人者の手記』しか読んでいないため、あくまでも同作に限った上での薦めであることは了解を。
さて、同作について。私は、「北欧ミステリらしさ」がふんだんに表れている優れた作品と感じた。これはあくまで私の印象でしかないが、北欧ミステリには、①年齢が中高年に達した主人公、②家庭環境や家族との間に何かしらしがらみを抱えている(離婚・再婚なり、子どもとの関係等)、③地道で報われるかも分からない捜査の果てに真相に至るプロセスが、北欧の風土と日々の中で描かれる、この3点が大きな特徴としてあると思う。
もちろん主人公が等身大の刑事であることが多い(捜査力にも限りはあるし、プライベートも順風満帆とは言い難い)というのは、海外ミステリでは必ずしも珍しいことではない。
しかし、ネッセル(スウェーデン)の『殺人者の手記』にしろ、アーナルデュル・インドリダソン(アイスランド)の『湿地』や『緑衣の女』にしろ、主人公らが直面する事件と、北欧の風土と現実の中で生きる人々が直面する諸々の問題(特に、移民・ジェンダーや、WWⅡや冷戦といった「過去」)とが、同じ地平線で結びついてくるという構造をとることが多い。
こういった括りをすることは必ずしもいいことばかりではないが、「北欧ミステリー」を読んでいると、人は生まれた・住んでいてる場所から中々離れられないという感覚に至る。それも冷たくて重く、ただただ雪と風だけが辺り一面に吹き荒ぶような景色。人は過去からも逃れられないし、過去の人付き合いからも同様。しかし、それでもやり直すことはできるし、別の道や選択肢を採ることもできる。少なくともその可能性や希望はある。さながら雪解けのときのように。ネッセルの作品にもそういった空気感のようなものが、あったと思う。
話を戻そう。ネッセルの『殺人者の手記』は、主人公の捜査官に殺人予告が送りつけられる所から始まる。そして最終的にはタイトル通り、「殺人者の手記」が焦点となる。「手記」に書かれた内容を巡る物語の展開は、やはり面白く、読み応えがある。少なくとも飽きることはないだろう
とはいえ、私個人としては本作を読み終えたとき「10年翻訳が遅かった」という嘆きにも似た感覚を覚えたのもまた確か。というのも(以下、ネタバレのため伏せ字)犯人から送られてきた手記、という時点で馴れた読者はどうしても「どこかに仕込みや嘘、改竄がある」と疑ってかかってしまう。本作もその分に漏れず、ある程度の展開やオチは読めてしまう可能性はある。もちろんそれ自体は決して悪いことではない、常々の私の持論だが予想を裏切らないことは決して悪いことではない。しかし、たとえば本作を読んだのが10年前だったならどうか。未だ北欧ミステリーなどを知らない頃、本作を読んでいたらとしたら、きっと絶賛していただろう。
できればもっと早く本作を読む機会があれば……そういった感覚は否定し難かった。ただこれは逆に言えば、長所でもある。北欧ミステリーにあまり触れていない人からすれば、むしろ本作はこれ以上ない入門になると思うし、作者の実力・本作の出来も折り紙付きと言うべきである。
番外編:『るろうに剣心 最終章 The Final』&アマサカナタ『竜歌の巫女と二度目の誓い』
ここまで4つ挙げた以上、5つ目を挙げるのがキリがよいと思った。が、それが決まらなかったため、いわば番外として映画とライトノベルからそれぞれ一つずつ選出することとした(当該作については既に記事を書いた)。
bitter-snowfall.hatenablog.com
bitter-snowfall.hatenablog.com
この二作には、「罪と赦し」というテーマが共通している。
まず前者『るろうに剣心 The Final』
本作の素晴らしさは、俳優陣の演技、美術・演出もさることながら、何よりも原作・人誅編における「罪と赦し」のアプローチとはまた異なる答えを採用したという点であろう。
それはひとえに決着のつけ方にあるだろう。(以下、ネタバレのため伏せ字)最後刀を折られた縁が巴の短刀を手に剣心を刺し、そこで初めて剣心と縁と正対し、互いの顔を見つめ合う。そうして剣心が縁に「すまなかった」という流れに、決闘の結末が改変されている。この映画では、ここで本当の意味で剣心と縁が正対する。そして剣心から縁に向けられた言葉が、謝罪。縁の憎しみも全て理解した上で、それでも彼の行いを間違っていると思うからこそ、闘った果ての言葉。
一部、原作キャラの扱い等不満点はあるが、概ね満足の行く映画だったと思う。
後者のアマサカナタ『竜歌の巫女と二度目の誓い』。1巻目が出たのは2020年12月、2021年3月には2作目も出た。1巻目の刊行は去年だが読んだのは今年というのもあって、番外での紹介。
『竜歌の巫女』の特徴を挙げるとすれば、登場人物がことごとく「過去」に縛られているという点だろう。その過去とは、個人の行いでもあるし、理不尽・不義に対する憤りでもある。本作は、理不尽・不義に対する憤り(復讐心)のもう一方の面として、罪への赦し(贖罪)を置く。過去に下された理不尽に対する憤りが復讐心を育て、報復へと駆り立てる一方で、報復が別の理不尽と不義を生み、加害-被害の関係者双方を苛む。
理不尽の被害者が今度は加害をする側に回り、加害する側が被害者に回る。しかし、いずれの立場にあっても、憤りを憎む心は消えなければ、かといって復讐心の裏にある罪悪感も常に消えることはない。
本作の扱う「分かっていても許せないこと」「怒り・憎しみの裏にある罪の意識、後ろめたさ」「贖罪の意識から生じる、赦したい・赦されたいという願望」、これらはいずれも湿っぽい話である。爽快さや分かりやすさなど欠片もなく、誰もが傍から見ているとしんどくなるような心持ち(と善良さ)で生きている。
先の『るろうに剣心 The Final』は剣心の信念と贖罪の意識を描き、縁の報復心を肯定しつつも、無関係な他者への理不尽だけへ認めなかったこと、それらを二人の対決という形で決着をつけた。
それに対して『竜歌の巫女』は、明確な「決着」という方向には向かわなかったと思う。おそらくそれは、「人生というものがこれからも続く」からではないか、と思う。人の心の中にある憤り・罪悪感・贖罪意識、あるいは後ろめたさや疚しさは消えることはなく、人生はこれから先も続いていく。そうした感情や思いと一生付き合っていく。たとえ辛くても、苦しくとも。もしかしたらいつか報われ、赦されるときが来るかもしれない。少なくともそれを望むことは許されてよいのではないか。私は本作から、そのような旨のことを読み取った。
*1:ただ三津田との比較で言えばこれは程度・グラデーションの問題になるかもしれない。むしろ比較すべきは、例えば笠井潔、一時期以降のホラー・幻想寄りになった綾辻行人、ポストモダンの影響の濃い法月綸太郎、「探偵」や「真実」辺りでいう麻耶雄嵩、あるいはメフィスト系の作家群なのかもしれないが
*2:これは単純化し過ぎかもしれない。しかしミステリーとホラーの融合、虚実の曖昧さ、果ては対象が真実・探偵による解決とその根拠に及ぶ場合も含めて、その手のテーマが未だ根強い人気を博していることからすれば、ミステリーが侵食される側=挑戦を受ける側で、曖昧さや不条理さの象徴とされる怪奇が侵食する側=ミステリーへ挑戦する側になりがちにも見えてくるのである。