苦雪のブログ

本やゲーム・映画についての感想を備忘録代わりに時折書きます。基本敬称略。

『蒼穹のファフナー THE BEYOND』:完結と一騎・真矢について

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(C)XEBEC・FAFNER BEYOND PROJECT

 

蒼穹のファフナー THE BEYOND』第10話~12話を劇場で観てきた。ようやく終わったのだなと安堵すると共に、長い間付き合ってきた者の一人として満足行くものだった(以下、ネタバレあり)。

 

 

 細かい話は措くとして。BEYONDの前半部分を観て、そして今回最終話まで観終わった上で改めて思ったのは、「一騎や真矢たちは今や無印でいうところの狩谷由紀恵、弓子の立場なのだな」、と。

 RIGHT OF LEFTの頃のまだ何も知らなかった頃。無印の前半の頃の大人たちに反発していた頃。無印後半、HEAVEN AND EARTH、EXODUSを経て少しずつ大人になっていくと共に、いつしか何かを「選び」、何かを「失う」ことを経験していく。後輩たちもファフナーに乗るようになったし、その後輩たちも世代交代、死別していく……。そうしてBEYONDではすっかりかつて幼い自分たちが反発していた存在、理不尽の象徴と思っていた「大人」になっていた。

 BEYOND11話「英雄、二人」。EXODUSのそれを彷彿とさせるタイトルの一騎が象徴的だ。視聴者は、あの頃からの一騎を知っているし、エレメントにもなってまで戦う一騎のことを知っている。だから、美羽が犠牲になることを知り止めようとする、総士の前に立ちはだかる一騎を見て、納得と共に寂しさも覚える。もう一騎は越えられる側なのだ、と。

 劇中で総士が言うように、一騎はどこかで仕方ないと諦めていたところがあるのだろう。ファフナーをザルヴァートルモデル化(マークアレス誕生時)した際、一騎は他を同化したが、総士は零央と美三香の勧告(同化)を拒んだ。戦いの結果、敗北した一騎を総士は同化しなかった。

 美羽の「祝福」もそうだし、総士の選択も、一騎や真矢、里奈や芹、彗たちではできなかったのだろう。同時に、彼らがいたからこそ、美羽と総士があの結末に至ったのだと思う。

 無印からここまで付き合ってきた視聴者は、すっかり一騎や真矢たちの心境にシンクロしてしまっていた。無印ラストで視力と総士を失った一騎。そこからHEAVEN AND EARTHで少なくとも未来と希望を感じさせる程度には何かを得た一騎。EXODUSで何かを切り捨てること、何かが犠牲になること、誰かがいなくなること、それらが当たり前になってしまった一騎たち。

 犠牲・必要悪・誰かのため・何かのため・仕方ない・何とか生き残ることだけはできた……そういう理由付けの果てに、いつしか劇中の皆も私達もそれらを何となく受け入れてしまっていた。敵を敵として排除する、仲間や皆を自分たちを守るために。それもいつの間にか必要なこととして納得しかけていた、割り切ろうとしていた、釈然としなくても受け入れていた。

 BEYONDに至ると、もはや一騎の行いは作中の「人間」の所業かどうかも怪しくなる。EXODUSの人類軍どころか、もはやフェストゥムにすら見えてくる。

 それでも視聴者は一騎のことを見放すことができない。これまでの彼らを知っているから。そう視聴者もどこかで一騎たちとシンクロしていた。でも、それをはっきりと「間違い」と断じたのが生まれ変わった皆城総士、一度は島を離れた皆城総士だった。

 だから、美羽や総士の劇中での行動にはどこか「自分たちと違う」という感覚がつきまとう。もう自分たちの感覚や思いは古いのだと、喪失にも似たような思いがある。それは一抹の寂しさを伴う。しかし、新しい「世代」だからこそ、一騎や真矢たちが救われたのだと思う。けれど、そこから進む必要がある。かつて史彦が「人類同士で戦うな」「憎しみで戦うな」と一騎たちを諭したようなことが、一騎たちそして私達はできるのだろうか――。

 

 BEYONDの結末、落とし所については何かを付け加えることはない。ここまで観てきた身として、十分過ぎるほどであった。

 それでも竜宮島に帰還した皆が、ボロボロになった家屋や街の中で在りし日の思い出を見つけるシーンについては、一言いいたい。きっとあれこそが、終わりを象徴するものとして相応しい。保が息子・衛と共に撮影した家族写真のホコリを払いのけるシーン。食堂に貼られた広登のポスターが日の目を見るシーン。

 そして、甲洋の傍らで眠っていたショコラが、亡くなるとき。ふと目をやると、翔子とカノンと共にショコラの姿が浮かび、その意味を察した甲洋が涙を流す……。ああ、これで本当にこの物語は終わるんだな、と思った。

 

 最終話では無印のEDの「separation」とOPの「Shangri-La」が流れる。最後、一騎と甲洋が島の外へと旅立つということを聞いて、その意味するところを知った。

 かつて一騎は外の世界に憧れていた。島の外に出ることを求めていた。しかし、憧れの島の外は一騎の求めた素晴らしい場所からは程遠かった。無印でもEXODUSでも一騎にとって島の外へ出ることは、逃避であったり使命であったりが目的であって、本人の自由な意思や憧れ、希望とは程遠かった。

 それが初めて、本当の意味で自分の意思で島の外へ旅立つ。それも小説版では最後は(以下、伏せ字)仲違いに至り生きながらにして「相互不理解」という結末に至っていた甲洋と一騎が。

 

「今なら言えるだろう 此処がそう楽園さ さよなら 蒼き日々よ」

 

 かつて幾度となく聞いたこのフレーズが、また違う意味を持って聞こえてくる。

 失ったものはたくさんあるけど、それでも此処に戻ってこれた。そしてこれまでのとても言葉には言い表せないほどの体験を踏まえて、新しい未来を生きるために。「さよなら 蒼き日々よ」

 一騎たちの「蒼き日々」、青春がようやく終わり、本当の意味で一騎たちの人生が始まったのだ、と思えた。

 結局、一騎と真矢は最後手を取り合わなかった。それをどう解釈するかは自由だ。もしかしたらいつか一騎が帰ってきたとき、またかつてのようなやり取りが交わされるのかもしれない。

 一騎が真矢に対して「一緒に来ないか」と呼びかけたとき、真矢は嬉しさと困惑が綯い交ぜになったような顔をした。彼女の内心でどのような逡巡が生じたのかは分からない。寸前まで「一緒にいきたい」と答えかかったのかもしれないし、決意が鈍ったのかもしれない。

 それでも真矢は「一騎の帰る場所に”いる”」ことを選んだ。なぜそう思ったのか。真矢が何を考えてその結論に至ったのか。結局、それは分からない。

 ただもしかしたら、真矢にとって「一騎と一緒にいく」とはもう”大人”な自分には許されないことと思ったのかもしれない。EXODUSと一足先に大人になってしまい、かつての総士や新しい総士どころか、一騎からすら「他人」となってしまった真矢。そんな彼女も、母の千鶴の死には泣き崩れ、気丈にも史彦に恨み言どころか感謝の言葉すら述べる。それでもほんの一瞬だけ一騎の前で「幼さ」を見せたりする。

 本音、幼さ、子どもっぽさ、ワガママ。表現は色々あるが、とにかく「自分がこうしたい」という欲望あるいはエゴ。劇中でこれを本当の意味で叶えたのは、美羽と総士だけだ。二人は、ある意味希望と可能性に溢れた子どもだから、かつての一騎や真矢のような存在だから、その選択肢が採れた(のかもしれない)。

 けれど真矢はもう子どもではない。自ら子どもであることを辞めた。一騎とはいろいろな意味でもう「異なる存在」。ファフナーの劇中では数多く存在していた恋人同士の関係には終ぞならなかった。なれなかった。あるいは、自分からその選択肢を放棄した。

 もし真矢がそんなことを考えてあの答えを出したとしたら。一騎は何を思ったのだろう。その意味を理解したのだろうか。

 おそらく互いのことをこれ以上なく分かっている一騎と真矢は、それ故にこそ離れることを選んだのかもしれない。そんなことを考えると無性に切ないが、同時に二人がその選択をしたことを尊重したい。そう思う

 

 

 以上の一騎と真矢に関する管を巻いたようなまとまりのない話は、以前に下記のブログ記事を拝見したことがあって、その際触発されたことから最終話を経て、私なりに思ったこと感じたことをとりとめもなく、書き綴った次第である。

 

koorusuna.hatenablog.jp

 

 

 最後に。蒼穹のファフナー、無事完結(?)で何よりです。無印から皆さん、お疲れさまでした。

 

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