第23回鮎川哲也賞受賞作の市川哲也『名探偵の証明』と、その続編である『密室館殺人事件』、 『蜜柑花子の栄光』。
第1作およびシリーズ名にある通り、ミステリーにおける名探偵の役割・意義に焦点を当てている。
個人の意見としては、1作目はまだしも、2作目以降では掲げたテーマに対して空回り気味というか、なまじ追究しようとした問題が大きすぎて作中での描写や応答というものが小ぢんまりとしているように受け取った。
以下、ネタバレあり。
シリーズ1作目の『名探偵の証明』は、かつて一世を風靡した名探偵・屋敷啓次郎を視点人物に据える。作中では、屋敷の存在と知名度によって現実世界で言うところの新本格ミステリーブームが生じた……とされているように、間違いなく現実世界を意識し念頭に置いた設定である。
しかし、かつての名声や実力も陰りつつある屋敷。それに対して、SNSでの人気が高くタレントさながらの活躍(2作目以降は辞めたがモデル活動までしていた)をする新進気鋭の名探偵・蜜柑花子。本作は「新旧二人の推理対決」を主軸に話が進む。
とはいえ、作中における「対決」は原義通りのものではない。むしろ、老いた探偵が若き探偵に自分より優れた才能と実力を見出し、嫉妬と将来への希望を両方を抱く様、己の不甲斐なさと衰えに苦しむ様、ここに1作目の真骨頂があると言っても過言ではない。本作を、老いた人間が自らの衰えや人生における後悔を自覚しつつ、それでも己の生き方・あり方を改めて選択しようとする物語として理解すれば、まず成功したと言えよう
対する若き探偵。屋敷に対する敬意は紛れもない本物であった。なにせ、「名探偵・屋敷啓次郎の復活」のため、先達としての彼を立てるために、自らの推理を曲げるつもりであったほど。
本作は最初から最後まで名探偵の話である。崩れ落ちた栄光を再び掴もうとする老いた探偵。名探偵に振り回された彼の家族。「相棒」に対する屈折した感情から、事件を引き起こした元・刑事。未だ業を知らない若き探偵。とにかくその手の湿っぽい話にはことかかない。
しかし、逆に言えばそれ以外の部分は辛口にならざるを得ない。
文章の上手い下手はともかく(私個人として全体的にそこも物足りなさを感じた)、作中扱われる事件の規模や謎自体、大したものとは思えず、必然的に新旧名探偵の凄さというものが余り伝わってこない。本作は、ミステリーに馴れた人向けであり、良くも悪うも湿っぽい名探偵の姿というのがウケるのも確か。しかし、逆に読み慣れた身からすると、作中の事件も規模も名探偵も小ぢんまりとした存在に見えてくる。
1作目はトリックや謎の斬新さや壮大さではなく、ストーリー面(多分に湿っぽさ)で賞を取ったと言っても強ち不当ではないだろう。私自身、本作がそういう意味での力を持っていることは否定しない。物足りない所は多々あれど、「嫌いじゃない」タイプの作品である。
続く2作目『密室館殺人事件』、3作目『蜜柑花子の栄光』は、蜜柑花子が主役に据えられる。前作での屋敷からの教えを受け、探偵活動に専念することに決めた蜜柑は、「名探偵の役目と業」に直面することとなる。
2作目の『密室館殺人事件』は、作中世界でミステリーの黄金時代を築いた作家・拝島登美恵が、蜜柑含む男女8人を自身の居住する「密室館」に監禁し、事件を解けば開放するという条件で蜜柑との対決に挑む……というものだ。
本作は、名探偵に恨みを持つ日戸涼を視点に据え進行する。本作の狙おうとしたところは、①作家・拝島の狂気、②名探偵を憎む涼が名探偵の助手となる決意をするまでの過程、③名探偵たらんとする蜜柑、④名探偵としての才を持ちながら犯罪を煽り積極的に引き起こそうとする祇園寺恋の4点と言える(このうち④については、3作目のところでまとめて触れる)。正直に言えば、①~③のどの部分も物足りないものだった。
まず①作家の拝島が自身の栄光を捨ててまで事件を引き起こした理由(動機)が、昨秋では十分描かれていたとは言い難い。拝島本人の口からそれが語られるが、本人がそう言っているに過ぎない。
これが前作であれば、屋敷啓次郎という栄光も陰りも両方経験していた人物がいて、それでも物足りなさはあれど諸々の要素に最低限の説得力を与えていたが、本作にはそういった部分が欠けている。拝島は、作品世界ではなく、現実世界における事件での名探偵による解決、それも「論理的な解決」を求めており、論理に裏打ちされていない読者の「そういう真相な気がしていた」「何となく分かっていた」は無意味だ、という趣旨のことを述べる。唯一この部分が論じるに値する箇所かもしれないが、私個人としてはもっと具体的な話をしてくれないと、So What?としか言いようがなかった。
次に②と③。正直に言えば日戸涼が蜜柑を赦そうとした理由がよくわからない。
2作目は涼が幼い頃離別した父と血のつながらない家族と再開する場面から始まる。このとき涼は幼い自分を捨てた父親、その配偶者や子どもたちといった血のつながらない他人を家族としなくてはいけないことに理不尽さを抱いており、憎しみに近いものすら感じていた。しかし、自分の姿を見て号泣する父親の姿、見知らぬ他人を家族として迎え入れようとする一家の姿を見て、”赦す”ことを決める。だが、事件により家族全員を奪われ、その解決をした蜜柑の存在そのものが事件を招いた、として彼女を逆恨み気味に恨む……というものだ。
正直、なんで序盤の数ページでできていることが本作全体でできていなかったのか疑問に思う。
涼が蜜柑を赦すと決めたのは、彼女自身による真摯な謝意、彼女が名探偵としての覚悟と業を背負っていること、そして拝島が集めた関係者が「復讐者と恨みを持つもの」同士である、と気づいたこと、この3つにある。問題は真ん中、蜜柑の覚悟と業にある。これが私には作中、十分描かれているとは思えなかった。
蜜柑は1作目の後、タレント活動を筆頭にメディア出演を極力シャットアウトし、自分の解決できる事件はすべて全力で取り組み、その様は寝る間も惜しみ、怪我や事故すら厭わないほど。彼女がかつての事件の際に負った傷を涼が見たというのが、重要なのは言うまでもない。
しかし、全体として蜜柑の覚悟や信念、それを垣間見た涼の心の変化というものが説明文臭く、「そういうものなのか」以上には感じられなかった。
この描写不足・説明不足というのは3作目そして、蜜柑の対になる存在、祇園寺恋にも当てはまる。
3作目の『蜜柑花子の栄光』は、蜜柑花子の狂信者が蜜柑を神として称えるべく、祇園寺恋の母親を人質にとり4つの未解決事件を限られた時間内で解くように要求する……というもの。
個々の事件の話は措くとして*1。この作品でも蜜柑は疲弊する。車での全国行脚の中、ロクに眠りもせずに推理をし時間を費やす中で遂には過労で倒れるほど。涼がどれほど懇願しても蜜柑は折れず、母親の命のかかっている恋はむしろ蜜柑を煽る。
ただ、全体の真相もあまり意外性はない。要は、
・誘拐グループは蜜柑ではなく祇園寺の狂信者
・真の狙いは、疲労そして限られた時間等の制約から必ず生じる蜜柑の推理ミス
・蜜柑の推理ミスを時間差で公開し、蜜柑の信用と名声を地に落とし、自身の側に取り込もうとした祇園寺恋
といった具合である。コレ自体に文句はない。が、初めからこれ以外に真相はないだろうと思うくらい、それまでの描写や展開に捻りがないくらい素直なせいで、蜜柑の凄さも祇園寺恋の凄さも微妙に見えてくるという問題がある。
2作目の拝島の言葉にここで反論すれば、読者を騙すためのそれ相応の細工がなければ、「ああ、知ってた」以外に言う他ないのだ。あからさまな手品で驚くのは無理なのだ。
ただ、まぁこの点はあまり重要ではない(と私は思う)。
より考えるべき問題は、『蜜柑花子の栄光』あとがき部分にある作者による解説と本作の描写を照らし合わせたときに見えてくる。
あとがき*2には、作者がどのような意図を持って本シリーズを描いたのかが語られる。個人的には大変ありがたいことに、作者の意図と読者の感じたこととが違っても、正解であると述べておられる(344頁)。
それによれば、作者は名探偵に対するツッコミは「calling」という概念を知ったとき、回避できると感じたという(345頁)。つまりは、使命とか召命とかそういう話である。
だが、屋敷や蜜柑がそれ(神から与えられた能力と使命)を受け入れたのに対し、祇園寺はそうではない。「恋は蜜柑や屋敷より上位の存在で、いわゆる究極の探偵像」(!)でありながら、神には従わない。そのイメージはサタンである、という(以上、345頁)。
蜜柑すら手玉にとり(神への勝利)、一時は栄光を手にしかけるが、それは結局の所未然に防がれる。その立役者は、ただの人間として名探偵の側にいた涼たちである。作者は、この展開は映画『ダークナイト』に大きく影響を受けたという(以上、346頁)。
以上のような作者自身による解説は、それ自体としては概ね正しいし、符合する点も多い。しかし、ツッコミどころを見出してしまうのも確か。
例えば、上記引用にある「恋は蜜柑や屋敷より上位の存在、いわゆる究極の探偵像」。私には恋も含めて、あまり作中の探偵の凄さというものを感じることができなかった。それは3部作で描かれた事件や謎の規模もさることながら、何より読者に対する箔付けの面で物足りなさが伴った。
この点、麻耶雄嵩の生み出した銘探偵・メルカトル鮎、そして名探偵・木更津悠也とそのワトソン役・香月とどうしても比較してしまう。ここで私が考えるのは、メルカトルではなく、むしろ木更津と香月である。(ネタバレのため一部白字に)推理力では木更津を遥かに超える香月だが、名探偵としての役割では遠く木更津に及ばないという捻れたこの二人のように、極端な形で名探偵の役割と意義を浮かび上がらせるような形だと、より言わんとすることが分かるのだが……。
作中の恋が凄そうに見えないというのは、涼たちに誘拐グループの足取りを掴まされていたり、そもそも2作目で自分からすべてをさらけ出した時点で、底が見えているというのもあるのかもしれない。
また『ダークナイト』を引き合いに出しているが、正直本シリーズは『ダークナイト』における”民衆の勝利”からはむしろ遠いと思う。
というのも、本シリーズに登場する一般人・民衆は、名探偵の信者かアンチとして描かれることも多い。涼のような人はむしろ”例外”であるから、彼らの存在が蜜柑を助けたという展開は、むしろ『ダークナイト』に真っ向から喧嘩を売っているのでは?と思った。
作中の一般人は、蜜柑をアイドル扱いしたり、名探偵の苦悩や業に気づかない人々扱いというのが大半である。もちろん、それはよくある話かもしれない。しかし、本作から受ける印象は、結局はほんの一握りの人や周囲の理解者のみが名探偵を危機や苦悩から救い、安息をもたらすというもので、これはむしろ『ダークナイト』とは相反する展開ではないだろうか?
名探偵の苦悩とか使命という点で、やはりエラリー・クイーンが脳裏にちらつく(この他、法月綸太郎の作品もあげられるが、割愛)。しかし、クイーンの『十日間の不思議』、そこに追い打ちをかけるような『九尾の猫』と救い、そして『災厄の街』や『ガラスの村』に顕著だったが、特定の共同体や社会に生きる人をなるべく等身大として位置づけ、好悪両面も描き、殺人事件や恐慌状態において人は良き存在にも悪しき存在にもなれると言うかのような民衆の描き方。ここからするとやはり物足りない…と感じてしまう。
bitter-snowfall.hatenablog.com
あるいは、最近だと阿津川辰海の『名探偵は嘘をつかない』『紅蓮館の殺人』のようなものとどうしても比較してしまう。やるからにはもっと徹底的にやって欲しかったというのが正直なところ。
bitter-snowfall.hatenablog.com
その意味では、本シリーズはむしろ近年の作品の先駆け的なものかもしれないが、本シリーズ以前にも名探偵の苦悩等は色々取り上げられていたし、「calling」というのも、わざわざ言われなくとも…な気がする。
ここまで相当辛口というか、酷な評価を下していることは否めない。私自身、この手の話が好きな故、どうしても比較対象は多くなりがちだし、評価点は厳しくなってしまう。一読者がこのような評価を下すのは、色々と差し障りがあるかもしれないが、「名探偵」という問いに対する秀作というのが本シリーズに対する適切な評価なのかもしれない。意欲や試みは大いに結構だし、個人的には「嫌いではない」。が、物足りなさが多分に否めない。要は人によっては、それだけで高く評価するし、逆に厳しくなるかもしれない、そんな類の作品である。