苦雪のブログ

本やゲーム・映画についての感想を備忘録代わりに時折書きます。基本敬称略。

阿津川辰海『紅蓮館の殺人』

 

 今回は阿津川辰海『紅蓮館の殺人』(講談社、2019年)*1を取り上げる。

 2021年2月に続編の『蒼海館の殺人』が刊行され、そちらを読んだので、これを機に前作にあたる『紅蓮館』についても記事を書くことにした(『蒼海館』についてはまた別記事で)。

 

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阿津川辰海『紅蓮館の殺人』(講談社、2019年)

 もっとも以下の文章は元々、『紅蓮館』を読んだ際にfusetter(ふせったー)で書いた感想を若干手直した程度のものだ。

 阿津川辰海については当時、『名探偵は嘘をつかない』(2017年) を先に読んでいたのと、私自身がエラリー・クイーンの全作品読破を試みていたこともあり、その辺りとの関連付けが多い。今見ても面白みのない内容と思われるが、しかしそれでも頭と言葉を振り絞って書いたものではあったので、何がしかの意義はあると信じたい。

 

 

 

 さて、以下では『紅蓮館』の内容だけでなく、『名探偵は嘘をつかない』、エラリー・クイーンの『シャム双生児の謎』、アンソニー・ホロウイッツ『カササギ殺人事件』の具体的内容にも、言及している。注意を。

 

 

 

 いきなり本作ではなく、先行する作品の内容に触れる形となるが、エラリー・クイーンシャム双生児』を読んだ際の話から。

 山火事が発生する中、殺人事件が起こるも、火が山荘に燃え移り、最終的には灰とススだらけになりながらも地下室に避難するという、しんどい状況の中。それでも、殺人事件のことを考え続けるのがエラリー・クイーン。自ら、「こんな状況で事件のことを考える意味はあるのか?」と自問しつつも、考えるを止めない。

 その姿勢は、しばしば「極限状態の下でも人は理性的思考や推理を手放してはならない信念の表明」といった具合に評される(そして同じく、しばしば中後期との対比という形で)。

 もっとも『シャム双生児』は、そういった作家の信仰告白とか実験作という点からはともかく、謎解きという点ではやや不満がある作品なのも事実である(具体的には、作中一貫して提示されるのダイイングメッセージの意味、話の展開それ自体)。山火事=命の危機というファクターに比しても、提示される謎は実はあまり捻りがなく、そこまで引っ張ることか?という疑問が湧くと、全体の展開それ自体にも不満が生じてしまう。


 それに対し『紅蓮館の殺人』はどうか。肝心要の吊り天井周りの仕掛け、これが文章だとやや分かりにくく思えることを除くと、館それ自体の秘密・事件そのものの謎・登場人物たちの謎の三点を破綻なく組み込んでいて、読ませるものとなっている。『シャム双生児』の場合、登場する山荘が「クイーン親子の避難場所」→「火事により安息の地ではなくなる」という形であくまでも舞台装置であったのに対し、こちらは「館もの」らしく舞台そのものへの謎も用意されている(しかしこの対比も、あくまでそう対比できるということ以上を意味しない)。

 本作について言えば、気の使い方が上手いとなる。『シャム双生児』の場合、「山火事」というエクスキューズ(誰だって山火事で山荘が飲み込まれれば冷静ではいられないだろう)を前にしては、作中人物の洞察や行動に多少の瑕疵があっても、許容されるだろう。しかしそうだとしても「でも『シャム双生児』の謎って、単純すぎない? 中後期ならまだしも一応まだまだ前期のノリに近いエラリー・クイーン君がこんな単純なことすぐに分からないの?」くらいのことは思うだろう。百歩譲って、謎を引っ張ることはいいが、それでも実質的に一つの謎をずっと引っ張るのはやや迂遠にも見える。
 その点から言えば、『紅蓮館』は上手くやっている。あからさまに妻を殺したことがバレバレな久我島の存在と、いかにも怪しげな小出がいることで他の人物たちの裏の顔が分かりにくくなっている効果を生んでいる。たしか『名探偵は嘘をつかない』でも手品に擬えた話があったと思うが、あからさまな謎を前に出して他を隠す手法(もっとも、財田一族の面々の正体自体に関しては日記とか背丈の話があるため分かりやすい方ではある)。

 勿論、これが作中で一番効果的に働いているのは、〈爪〉の正体が誰かを考える際、読者が久我島を無意識のうちに除外してしまうという点だろう。

 

 ところで財田雄山という作家の描写に際して、松本清張との比較がなされていた。「本当に書きたいもの(純文学)ではなくミステリーで評価され続けた作家」。世間の評価するものを本人はどうでもいいと思っていて、その癖、当の本人は倫理観といったものをかけらも持ち合わせていない俗物というのは、『カササギ殺人事件』に出てきたある人物もそうだったが、第三者的には見ていて面白い。個人としては嫌なヤツだが、観察対象としては興味を引く。現実では関わりたくはないが。そんな人は案外少なくないのでは。

 

 さて本作は中盤以降は、新旧探偵対決とも言えるような様相を呈する(もっとも片方は、「探偵」というより「人間」と言うべきか?)。

 一歩引いて見れば、物語の構図は当初から「真実・論理を武器にする若き探偵」vs「落とし所やより深遠な目的のため、真実追求を二の次にする元探偵」であることに変わりはない。
 しかし当初の物語は、若気の至りからその場の空気も考えず真実の追求のみを求める新人探偵に対して、元探偵が経験やより説得力の高い論理に裏打ちされた推理と娑婆心から後輩を諌めるものである、かのように映る。

 この段階では、『シャム双生児の謎』でのエラリー・クイーンとクイーン警視の悪戦苦闘への皮肉にも見えたし、もっと言えば「なぜ『シャム双生児』では登場人物たちは皆なんだかんだで迫りくる火事なんかより、捜査の方を優先させるし、周りをそれを許してさえいるのか」といった(本作においても予め表明されるであろう)疑問への回答にも見える。
 だが本書を最後まで読めば明らかな通り、最後の最後で元探偵の行動の意味(目的)が明かされたことで、物語の構図それ自体は変わらないものの、その意味は大きく変わった。それが物語において生んだ効果は大きい。

 落とし所とかより現実的な目的を求めるのではなく、「事件を自分の都合のいいように操り捻じ曲げた元探偵」といったところか。ラストの皮肉めいた言い回しの「全てを解くために、全てを壊そうと」する名探偵(438頁)という指摘含め、中々切れ味鋭い作品であると思う。
 特に、著者のデビュー作『名探偵は嘘をつかない』が「真実を求める探偵未満の人々の物語」であり「名探偵が真実を追求することの極限を志向した作品」であったことを考えると、本作は一歩進んでいるというべきか。
 というのも、(批判めいた言い方になってしまうが)『名探偵は嘘をつかない』の阿久津透は正直ちょっとアレな人である。彼があそこまで行ってしまった原因は理解できるし、真実を求める覚悟を背負う彼の姿勢には敬意に似たものすら抱いたが、だからといって真実を求める覚悟を旗印に文字通りなんでもやっていた感のある阿久津透に対して納得はし難いし、悪印象からの掌返しで彼を全面肯定するのは色々な意味で抵抗があった。
 それに比べると、『紅蓮館』は初めから名探偵を突き放しているようにも感じられた。その場の空気や迫りくる山火事からの脱出ではなく推理や真実追求を求め、文字通り全てを壊そうとする葛城。初めから全てを知っていたにも拘らず、事件を都合のいいように歪めていた飛鳥井。正直どちらにもご遠慮願いたいだろう。
 本作で描かれたのは、名探偵が真実を追求すること自体が無意味になってしまう局面、あるいはそう見えてしまう地点(存在意義の喪失)なのではないか。その意味で、本作は「名探偵が真実を追求することのもう一つの極限を志向した作品」とも言えるかもしれない。

 

 ……とここまで書いたものを読んでくださった方。そのような方が仮にいるとすれば、おそらくこれを書いている人間に対して、こう思われたかもしれない:「この文章を書いた人間は、本作にとても入れ込んでいるのだろう」、と。
 自問自答のような形で恐縮だが、それについて私はどう答えればいいか分からないと言うしかない。阿津川辰海は面白いものを書くな、とは思っているが、氏の作品すべてを買って読もうと思うほど入れ込んではいないし、本作『紅蓮館の殺人』についてもハマったかと言うと、そうとも言い切れないものがある。

 有り体に言えば、私は本作の登場人物の誰にも感情移入できなかったから、この文章を書いたと言うべきか。これは『名探偵に嘘をつかない』の登場人物らに対して、濃淡や程度の差はあれど、何かしら共感・理解・納得ができたのと比べると、自分でも不思議だった*2

 

 以下、登場人物に感情移入できなかったのはなぜか、という点を考えてみたい。
 葛城に感情移入し難かったのは、①本作それ自体が(上述のような理由から)名探偵を突き放している、②『シャム双生児』的状況で、火事より謎解きってそりゃないでしょーな感覚に訴えられたからという理由で説明できなくはない。つまり、著者の意図通りという可能性が高い。
 余談だが、〈爪〉である久我島の動機についても、テンプレサイコパスだなぁ以上のものを感じなかった。それについては、飛鳥井が久我島に対して何度もこき下ろしていることからすると、それ含めて著者の意図な可能性もあるが、そこは正直なんとも言えない。
 話を戻そう。おそらくこれが一番、「私が本作の登場人物に感情移入できなかったと考えた所以」なのだろう。私は、元名探偵の飛鳥井にも余り感情移入できなかった。
 彼女がワトスン役たる甘崎を失ってから探偵ではなくなったというのは、まぁ分からなくはない。物語の構図の意味が変わる前も変わった後も、物語上「真実を追求すること」のネガを問う役目を持った飛鳥井はある程度一貫していると思う。
 おそらく葛城にも感情移入し難いが、かといって飛鳥井は飛鳥井で……となったのは、次の理由かもしれない。
 (a)状況を考えず真実追求をする葛城が空気を読めてないのは分かるし、飛鳥井が言うことがもっともなのも理解できるが、どうも飛鳥井の言うことに裏を感じてしまい、一歩引いてしまったから(要は、葛城をスケープゴートにしてる節があり、一見まともっぽい方が却って胡散臭い理論)。
 (b)飛鳥井がそうなってしまったことは、納得はし難いが「そうなってしまう人もいるかもしれない」と理解できなくはない。しかし、だからといって飛鳥井の行為が外道・非道なことには変わらないじゃないかと思ってしまった。何をそんなヤツに言い負かされているんだ、負けるな葛城・田所、と。
 (c)私が、「関係性が閉じた関係」(輪が閉じた関係とでも言い換えようか)というものが嫌いだから。誤解なきように言うと、私がホームズとワトソン、ポアロヘイスティングス的とかが嫌いということではない。


 ※ここからは、飛鳥井と甘崎がお好きな方にとって、場合によっては不快になり得るかもしれないので、ご注意いただきたい。


 どうも私は、飛鳥井と甘崎のような人間関係が余り好きではないらしい。本作には在りし日の飛鳥井と甘崎の仲睦まじさの描写が幾度か描かれたが、私はこの手の関係性が苦手なのだ。特に234頁以下、それも236頁にある甘崎の「先輩男子」が言葉で甘崎を「縛り付けてくる」とか、「他人の評価とか、正直言ってどうでもいい」的な独白から一転、飛鳥井を「わたしのお姫様」(234頁、237頁)と呼ぶ下りは、私のまさに苦手な(敢えてこの言い方をすれば、余り愉快とは感じない)パターンだった。 
 なぜ苦手なのかは措いておいて、私が飛鳥井と甘崎の関係性に一歩引いてみてしまい、それが更に前述の(b)に作用して増幅したのだと思う。「いや確かに貴方にとって、いかにその人がかけがえない存在であったかは分かったけど、だからといってそれを理由にして、『大事な人』以外を踏みにじる貴方の行いは……」というのが極力穏当に表現した、その時の私の偽らざる心情だ*3
 この理由については、自分でも書くべきかは微妙なところ。しかし、自分の考えに嘘をつけないし、言わないより言っておいた方が良いと思うため、書いたという次第。

 

 ともあれ以上のような理由で、私は飛鳥井にも感情移入し難かった。そのため、本書の(二重の)対立軸である葛城vs飛鳥井のどちらにも乗り切れず、かといって他の人々にも感情移入はできなかった、という所か。
 ただ最後に、気になるのが本作の結末である。葛城にも飛鳥井にも感情移入がほとんどできなかった私は、本作のたどり着いた場所の「次」が気になった。いわば「答えは著者の次作でなのか」、「答えを読み手に委ねたのか」、あるいは(より酷な言い方をすれば)「名探偵と元探偵の対立の末、依然として解答は出されぬまま」と見るべきか。

 さて、その答えは出たのか出なかったのか……。この話は、『蒼海館の殺人』の方で。

 

 

 

 

*1:

www.hanmoto.com

*2:読者の登場人物への「共感」なるものは必須ではない。そもそも「共感」なる言葉で括れるほど、単純なものでもないだろう。しかし「こいつのことを理解できる(と自分は思った)」、逆に「こいつのことは理解できない(と自分は思った)」なら、そのことを掘り下げる意味はあるだろう。理解という言葉は、別に好きでも嫌いでも何でもいい。

*3:ここまで来ると、若干愚痴っぽいし、藁人形論法めいてくるが、自分の大事な人・もの以外はどうでもいい、それ以外はゴミ的な閉じた関係性は一定程度人気がある。私はむしろそんなものをこそ厭うているタイプの人間なのだ