滝川廉治『Monument あるいは自分自身の怪物』を読んだ*1。
この本を読もうと思ったきっかけは、たしかあるライトノベルの感想をAmazonレビューで見た時、評者が名前を挙げて称賛していたからだった、と記憶している。
結論から言うと、この『Monument』は「面白いが色々と惜しい」と評するのが的確だろう。
まず面白さについては、世界観・設定のみならず、登場人物の造形にいたるまでが尽く緻密であること、とりわけ人物の感情や思惑を描写することについては秀でている。
逆に惜しい点。端的に言えば、一冊にすべてを詰め込み過ぎていること、であろう。以下、面白さと惜しい点について、具体的に述べていこう。
『Monument』は、人類が「火を熾すよりも先に、発火の魔術に目覚めた世界」を舞台としている(あらすじより)。しかし、それでいてソクラテスもプラトンも、ベートーヴェンもモーツァルトも、ヒトラーやスターリンも存在していたという、「不思議な力が存在しても、結局は似たような歴史を歩んできた世界の物語」である(8ページ)。
作中には多種多様な魔法使いが登場する。例えば、主人公のボリス・カルノフ(元・旧ソ連の少年工作員)は、瞬間移動魔法を使う。その彼が、『賢者』千草トウコの護衛を本人にも知られず行うべしとの任務を引き受け、そのためにトウコの妹ナナコに接触する所から物語は始まる。
『Monument』は、本編の40年前ロバート・ウォルトンによって発見された、太平洋に浮かぶピラミス島を舞台とする。ピラミス島の地下には、古代魔法文明が建造したとされる遺跡群〈モニュメント〉がある(37ページ)。この〈モニュメント〉の調査と研究のために設立されたのが「ピラミス魔法学院」である。先のウォルトンは初代理事長となる(39-40ページ)。
ボリスはトウコの護衛のため学院の新入生であるナナコの同級生として接触することになる。ここまでなら、よくあるライトノベル風だが、この作品はそうヤワなものではない。この物語の主軸は、徹頭徹尾「ボリス・カルノフ」を描くことにある。
先に触れたようにボリス・カルノフは、旧ソ連の少年工作員である。その出自故、自らを偽ることに長けていて、その自らを一歩引いて見ている。そんな彼は、いわば打算としてナナコに接触する。偶然やハプニングを装い、「好意的な外国人」としてナナコに接するボリスは、余りにも簡単に騙されるナナコと、ひいては自分自身に対して冷めた目を持つ。ライトノベルのテンプレを皮肉っているのか?と思うくらい、「運命的な出会いに一目惚れした少女と、そのあからさまな好意に気づかずあくまでも友人として接する好青年の演技に対して、自他両方への嫌悪感を持つボリス」の描写は続く。
この描写は徹底していて、自分を偽ることがほぼ人生のボリスは、あまりにも簡単に騙されるナナコに対して、心中では一歩引いた立場を崩さない。
人を騙すことに関してボリスは良心の呵責など感じないが、こうも完璧に騙されている相手を見ていると、明らかな間違いを訂正したい気分に駆られる。知らない人が相手でもファスナーが開いているのを見たら注意してあげたくなるのと同じ気持ちだ。
滝川廉治『Monument あるいは自分自身の怪物』248ページ。
しかし、(この場合、害意という意味ではなく騙すという意味に近いが)悪意に鈍感で善意を信じるナナコに対するボリスの悪態じみた思いは、鏡像としての自分への嫌悪感じみていく。
嘘を吐いているボリスが一番悪いのは解り切っているのに、その嘘を鵜呑みにしてボリスに心情を慮ろうとしているナナコに対し、まるで筋の通らない腹立ちが生まれている。
同252ページ。
もうボリスが何を言ってもナナコは最大限好意的に解釈して、勝手に感動してくれるのだろう。
同267ページ。
……とこんな風に、ボリスからナナコへの評価は徹頭徹尾辛い。さてそれでは、ボリスという人物の経歴や生い立ち・思考法に沿って、『Monument』という物語を読む我々読者は、どう思うだろうか。
この点は人による、という点はさておき。わたしの場合は、ボリスがそう感じることは理解できるが、些か一方的な非難だな、と感じた。ボリス自身、自覚してる通り、騙してる側が騙されてる側を揶揄してるに過ぎないのだから、例えそれがどれほど深刻で真面目なものだとしても、非はボリスにあるだろう。
むしろここで見るべきは、読者という存在が、ナナコにもボリスにも等しく距離を話されているような状態なのかもしれない。ボリスにも共感はできず、かといってボリス視点で物語を見ているせいでナナコにも真面目さと、それ故の滑稽さを抱いてしまう
ただし特別サイトに公開されている書き下ろしSSを見ると、ナナコはボリスが思うほど愚かではないし、それどころかほとんど「分かっている」ことが読み取れる。ナナコを通して語られる「ボリス・カルノフ」の姿が、この物語を通して描かれた「ボリス・カルノフ」の本当の姿だったのだろうか*2
閑話休題。こんな調子のボリスだが、逆に最初から自らの悪意に気づいていて、それでもナナコを害さない限りは黙っているスタンスを貫くトウコ(227ページ以下)に対しては、「トウコの堅実で整理された思考法はボリスにも理解しやすいものだった」(280ページ)、と案外好意的だ。トウコとの「緊張感ある会話」を楽しむけらいすらある(289ページ)。
決して表には出さないが、自分の過去について説明して以来、ボリスはナナコと話しているとかすかな苛立ちを覚えるようになっていた。不思議なことに潜在的な敵対関係にあるトウコと話している方が気楽なくらいだ。
同289ページ。
この感情の原因をボリスは、良心の呵責などではなく、他人を無邪気に信じられる悪意とは無縁のナナコへの嫉妬や羨望の類のものと考える(290ページ)。おそらく、それは物語的には(作者の意図的には)正しいのだろう。
ここまでボリスがナナコ・トウコに抱く感情というものを中心に据えてきた。だがこの物語は、徹頭徹尾ボリスの物語である。物語の黒幕(というよりは、ボリスよりは事態を把握している者たち)は、最初からボリスを相手にメッセージを送っていた。空港にたどり着いたボリスへ向けて、わざわざ故国の国歌を流すほどに。
さて、物語の真相というものはシンプルである(一応、ここからはネタバレ注意)。
「ピラミス魔法学院」の創設者ロバート・ウォルトンとは過去にタイムトラベルしたボリス・カルノフ自身であり、彼の孫娘がヴィオレッタ・ウォルトン(表紙の人物)である。
この仕掛けそれ自体は、隠されて入るが見抜けない程ではない。もしかしたら……?くらいのもの。作中のヴィオレッタの態度辺りで検討がつくかもしれないくらいのもの。無論、物語として破綻しているわけではない。
不満があるとすれば、最初に述べた「惜しい点」に関わる。要は、400ページ近くの一冊の本ですべてを明かしたというのは勿体ない、ということだ。『Monument』という作品は、1巻完結であるが故、詰め込み過ぎているという印象がある。
例えば他の出版社や他のレーベル・他のタイトルであれば、『Monument』という作品は最低でも上下巻とか、数冊のシリーズになったかもしれない(さすがに10冊以上は多すぎるかもしれない)。なにせ『Monument』という作品は、前半まではまさしく大抵のシリーズものの「導入」をなぞっているのだから。
旧ソ連出身の工作員、「ピラミス魔法学院」、〈モニュメント〉、不可解な行動の理事長代理・ヴィオレッタ、ボリスへの襲撃……。ライトノベルの1巻目らしい展開ながら、中盤以降は一気に畳み掛けていき、早くも真相が明かされてしまう。むしろその潔さを良きかなとすべきかもしれないが、私は些か勿体ないと感じてしまった。
というのも、ボリス⇔ナナコへの関係、ボリス⇔トウコへの関係、ボリス⇔ヴィオレッタの関係などを一冊にすべて詰め込んだせいか、全体的にスピーディーに過ぎるという印象は否めない。特に、ヴィオレッタの場合、表紙を飾ってはいるものの描写がかなり少ない。ナナコとトウコ、あるいは後で述べる「預言者」セレーネの方が目立っている。
また理事長が過去のボリス自身であるということ、そしてそれを受け入れたボリスの心境の変化というのもやや急だ。例えばこれが上下巻であったならば、ボリス自身の心理描写、理事長としてのボリスの姿・周辺の人々の回想、今のボリスを巡る人々の描写なども踏まえて、より立体的に描くことができたであろうし、ボリスの行動もより納得できるものとなっただろう。この1冊だけでは、足りなかったと言わざるを得ない。私には作家本人や出版社との事情は窺いしれないが、せめて上下巻とかで見たかったと思う。
ともあれ、こういった惜しい点はあれど『Monument』は読ませる作品であったことは間違いない。その要因は、作品の中盤に挟まされるトウコと「預言者」セレーネとの会話だ。
セレーネとトウコは抱く価値観と有する立場が異なる。それ故、微妙な対立関係にもある(具体的な話には触れないが、アイーダという少女を巡る、セレーネ・トウコ・ヴィオレッタの過去の挿話がある。が、ここでもセレーネとトウコに比べてヴィオレッタはやや目立たない)。
セレーネはトウコに問う。もしこの世界に魔法が存在しなかったらどんな世界になっていたと思う?
トウコは答える。文明の発展速度は大幅に遅れ、社会的な制度や思想も大きく異なっているだろう。魔法のない世界では、海を割る奇跡など誰も信じず、宗教など生まれないだろう。個性の違いも尊重されず、強圧的な国家主義が常識となっているだろう。と。
セレーネは言う。それでは、魔法のない世界では、バッハもショパンも音楽を生み出せなかったのだろうか、ホルストの『惑星』など生まれないのだろうか、と。
トウコは言う。然り。占星術など魔法のない世界では発明されないだろう。
セレーネは言う。魔力などなくとも知性さえあれば、人は天体の運行に規則性を見出すだろう。魔法などなくても文明は発展していっただろう。宗教は生まれるだろう。ヒトラーやスターリンによる蛮行は行われただろう(171-173ページ)。
一連の会話は、トウコ曰く「私達が考えているほど、私達の人生の選択肢は多くない」(173ページ) と評される。それを受けて、セレーネは自分が未来を知ることができるのは、例えばトウコがトウコであるからだ、と言う。たとえ魔力などなくとも、身体が不自由でも、トウコがトウコであるなら、どう考えどう行動するか分かるから未来が見える、と。
この一連の会話に物語上、どこまでの意味合いがあったのだろうか。セレーネの言うこと以上の意味があったのか。恐らく、物語上(作者的には)は否、だろう。この会話の意味は、全て作中語られている。
ただそこに読者が何らかの意味を見出すとすれば、透徹としていながらも、どこか嘯いているようなそんな言い回しに興味を覚えた、といったところだろうか。トウコとセレーネの人物描写も兼ねつつ、「この作品ではそういう設定だよ」という作者からのエクスキューズにも見えるし、あるいは広くて抽象的な意味での歴史に対するIFに否定的なニュアンス(そして『Monument』のラストにつなげるための含み)にも見える。
結局の所、『Monument』の終わりというのは、種明かしに留まる。良くも悪くも根本的な解決なるものはなされないままである。『Monument』の世界の最終的な行く末は描かれないまま、終わった。
この点だけ見れば、『Monument』は「1巻打ち切り」にも見えてしまう(本当にそうかは別である)。
しかし、ボリス・カルノフという視点(フィルター)を通された世界の見え方、ボリスを通したナナコ・トウコの見え方、ボリス自身の行く末、作中で描かれた軽妙で透徹した会話、何より作者の細かい目配りというもの(あとがきを見れば分かる通り、作者の滝川廉治は出来得る限り調べ、自身の書いたものがセンシティブであるが故、なるべくそれらに誠実であろうとしたことが窺える)があるため、私はこの作品には好意的である。惜しむらくは、「シリーズの始まりから終わりまで全てが一冊に詰め込まれていること」である。