苦雪のブログ

本やゲーム・映画についての感想を備忘録代わりに時折書きます。基本敬称略。

『最後の決闘裁判』

 

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(C)2021 20th Century Studios. All Rights Reserved.

 

  『最後の決闘裁判』を見てきた(以下、ネタバレがあるのと、内容が内容であるため閲覧には注意)

 

 

 

 評価点としては、全体的に絵がいい(1370~80年代フランスの城塞や砦、諸侯・騎士とその家族の生活)、当事者の語りを通して異なる”真実”を映す手法が面白い。決闘シーンなどは、「騎士同士の決闘」のロマンとはかけ離れた様を描く。フランス国王(裁判長も兼ねる)臨席の下での裁判や当時の妊娠・出産に関するロジックや考え方。この辺りも含め、多少は西欧史に興味がある人は楽しめるだろう。

 この手の話(当事者の語り・真実というものが主題になる話)に多少は通暁している人は、第1章からして既に疑ってかかってしまうというのはあったかもしれないが、個人的にはそれでも見てて飽きなかった。

 第1章の視点人物、カルージュからして既に独善・空気の読めない、自分の思い通りにいかないとキレる・妻のマルグリットも自分の了見でしか見ないと役満級。

 続く第2章のル・グリは学識(ラテン語)に通じ、「政治」も分かるという点でカルージュよりはまともに見せて、即アレな人物であると描かれる。外面は好人物に見えて、マルグリットを愛してるのだから相手も自分を愛しているはず、という論法で強姦に及ぶル・グリを演じたアダム・ドライバーさすが、と思う。この映画で一番見てて面白かったのは、表面と中身に天と地との隔たりがあるように見えて、本人自体は終始一貫している(端からどう見えるかの違いに過ぎない)というル・グリだった。

 既にそこかしこにアレなところを見せる第1章のカルージュの後に、第2章のル・グリが来て即カルージュをディスったり、カルージュの空気の読めない(文字通り本当に悪い意味で空気が読めないタイプ)、扱いにくい様がこれ以上ないほど描かれていたのはある種痛快さすらあった(それで迷惑を受ける家族らからすれば溜まったものではないが)。

 第3章のマリグリット。作中、ありとあらゆる人物にいじめぬかれていく様は、やはり見る者にそれなりにいたたまれなさを感じさせる。義母・友人・夫・夫の”親友”と周りに味方はいない。裁判では、強姦を受けたのに責められる(個人的には、裁判での尋問時に当時の妊娠に関する理屈(夫婦間の愛やオーガズムで妊娠ができるか否かが決まる)というのが描かれていたのは、作風と設定が合致するようにつくったのだと思う)。挙句の果てには、決闘に自身の命がかけられる。終始、ニタニタと嗤っているシャルル6世に対して、事の次第に引いているイザボー妃との対比もまた……。多分この映画で一番マルグリットのことを案じていたのは、イザボー妃だったと思う。

 この映画、やはり見せ方が上手い。同じようなシーンでも、視点人物によってかなり異なる絵が浮かんでいる。ル・グリ視点の強姦シーンと、被害者マルグリット強姦シーンは当然違う。泣き叫びやめるよう懇願するマルグリットを一顧だにせずただひたすら腰をふるル・グリというのは、正直見ていて引いた*1

 追い打ちも続く。性被害を告白したマルグリットに対して、カルージュは本当は抱きしめも赦しも請わない。ただ首を締めんがばかりに詰めより、性交を求める。マルグリットの友人は性被害を告白した彼女を冷たくあしらう。第1章ではマルグリットから要求していたように見えていたものが、たんにカルージュの独善から出たものであったことが第3章で描かれる(これらはともすれば、最初から予想の範疇なのかもしれないが)

 

 ただ本作いくつか難点や疑問点があると思う。

 第一に、この映画は誰に向けたものなのだろう、というものだ*2

 本作は明らかに「性被害を受けた女性の告発と、それを周囲がどう扱うか」を題材としている。この部分に込められたメッセージは、これ以上ないほど明確だ(何なら第1章の途中から察しがつくくらい分かりやすい)。

 しかし、この映画を見に行く人のおよそほとんどはそこに理解がある、または多少なりとも知識や関心がある人が少なくないと思う。そういう人にとっては、細かい意見やニュアンスの差異はあれど、「そこは織り込み済み」「知ってる」「分かってるよ」という結果に収斂するだけではないだろうか。

 例えば私のように、当時の社会・風俗であったり、当事者の語り・真実のあやふや感だったり、別の要素に着目することになってはいないだろうか。ここも紛れもなく本作において重要な要素であるが、ともすれば制作陣のメッセージよりも、そっちに注目が行くようなものなのではないだろうか。

 あとこれは私の知識と記憶が正しければという前提込みであるが。この映画は過去の出来事を現代風の解釈で再構成するけれども(つまり#MeTooを念頭に置いている)、当時の文脈においてこの裁判は、「マルグリットは姦通をしたか否か」が問題となっており、そこには「マルグリットが自発的に声を上げる」という選択肢はない。実はマルグリットの意思など誰も一顧だにしなかったという点では映画と変わらないが、これまで性被害に泣き寝入りを強いられた女性が声をあげる#MeTooの文脈と、本人の意思に拘らず(神意にしろ評決にしろ)姦通したとみなされれば罰せられる姦通裁判の文脈は大きく異なるはず。半可通の私であるため断言はできないが、その辺りは気にかかった。

 

 第二に、全3章構成の3番目、「マルグリットによる語りが真実」であるというメッセージと、演出・構成・手法の乖離があると思う。

 結論から言えば、本作の言いたかった「当事者の告発に寄り添うこと」と複数当事者間の”真実”を連続して描く構成、相性が悪いのだろう。この点は、既にいわゆる『羅生門』形式との相性の悪さという形で多くの指摘がある。

 ただ私はもっぱらミステリーばかり読むため、どうしてもそっちに引きつけた見方になるのだが(もちろん、これがある種の趣味の悪さ・不誠実さを伴う行為であることにご注意を)。作中「真実」というものが登場すると、どうしてもそれが本当に正しいのか、その正しさを誰が担保するのか、という問題を考えてしまう。

 本作は、”後期クイーン的問題”とは無縁(つまり無関係なのに持ち出すのは野暮)なのだが、それでも第3章の開始時「マルグリットの真実」とテロップが出た後、「真実」という文字だけが残るという演出を見た瞬間、思わず「これはどうなのだろう……」と考えてしまった。

 本作は明らかに「当事者の告発・語りに寄り添うこと」を念頭に置いている。だから、この疑問は「お前は分かっていない」と思われる類のものかもしれない。だが複数人物の視点により”真実”を語らせる手法は、結局のところ受け手はどの真実を信じることができるのか、何が真実を担保するのかという問題を呼び込んでしまう。

 もちろん普通の読解力があるなり、合理的な解釈をするなりすれば、カルージュ、ル・グリ、マルグリットのうち誰が本当のことを言っているか、は分かるように本作はつくられている(※「史実」、「事実」でどうだったかではなく、映画の中での「真実」)。

 本来はそれで十分だと私は思う。しかし、本作は第3章の開始時、ミステリーで言えば地の文に相当する箇所において、「マルグリットの告白は真実である」と宣言してしまった。これは非常に厄介だ。本作は、マルグリットの語りが優位にあることの理由を、いわばそこで説明しきってしまった。

 作中では「神」の視点はない。冗談とかではなく、本当に「神」による真実の描写があったほうがよかったのでは、と思うほどだ。普通の読解力・理解力があれば、第1章の語りが、第2章の冒頭で既に「フィルター」を通したものであると察せられるし、第3章の内容を見れば、何が「真実」かも分かるはずである。「真実」が何かはわからない・当事者の回想は偏りや誤りがあるといった一般論でもって反駁されることを避けるがため、こうした手法をとったのだろう。しかし、「これが真実」という宣言もそれはそれで厄介なのだ。

 

そして第三に、結婚・家庭・夫婦の愛への疑問はつきつけても、子ども・子育てへの疑問はつきつけなかったな、と

 作中、マルグリットがカルージュに対して「子どもに必要なのは正義ではなく、親」というセリフがある。言わんとする所は分かる。カルージュの独善と独断で、マルグリットは自身の命をいわば賭けにベットさせられたのだから、生まれてくる子どものことを考えれば当然のセリフだ*3

 だがこれを聞いた私は、この映画は子どもを聖域にすることにまでは踏み込まないのだな、と感じた。別に性暴力を受けた結果生まれたかもしれない子どもだから、とかそういうことを言いたいのではない。散々、劇中では夫婦間の性暴力、抑圧的な家庭生活に加えて、「夫婦がオーガズムを迎えれば子どもは授かります」式の理屈(当時の文法)に沿ってマルグリットをいじめ抜いたのだから、ならばいっそのこと子どもと子育てへの疑問にも踏み込んだ方が潔かったのではないか。ましてや、劇中のラストシーンはマルグリットと子どもの幸せで平穏な一日の一幕というのは……。どうせなら家庭や結婚生活で疲弊したけど、子どもの存在に救われる……なんて物語こそひっくり返すべきではないのか?と思ってしまった*4

*1:このシーン、性暴力被害者の方にとってはトラウマを刺激される程のものでは?と思ったし、ここまで描く意味があるのかとも一抹の思いを抱くほど

*2:この点に関して、より参照に値すべきもの、と私に思えるのが例えば以下のブログ記事:

『最後の決闘裁判』は誰のための物語なのか - Coffee and Contemplation

*3:関連して。途中までマルグリットのことを抑圧する立場であったカルージュの母親。当時の価値観や風俗を考えれば、むしろ忠実と思えたのだが、最後の最後自身が過去に性暴力を受けたことを告白し、しかしマルグリットと違いそれを黙ることを選択した身であると明かす。この場面、作り手の顔・自己主張を感じた。言い換えると、カルージュの母親はそれまで1370~80年代の人間だったが、この晩だけ現代人なのである。

 率直に言えば、私は男であれ女であれ「家父長制の犠牲者同士の連帯・寄り添い」に馴染めないものがある。家父長制の負の面で傷ついた人が、「ブラザーフッド」や「シスターフッド」に向かう(共感や連帯という形)ことに、どうにも拭いきれない違和感がある。結局のところ家族・家庭・恋愛・子どもに執着してるだけではないか、異性愛規範なり恋愛規範なり結婚規範なりがネガポジ反転してるだけではないか、と思えてならない。なぜ、孤独に向かわないのだろうか。私には、そこが難しい。

*4:この点も指摘しておくべきだろうが、本作は基本的には中世フランスの価値観(≒家父長制的)を前提にしている。だがマルグリットの子どもに対する視線や認識は、極めて現代的なものとして装飾されているということは見落とすべきではない。参考までに:フィリップ・アリエス、杉山光信、杉山恵美子訳『〈子供〉の誕生 アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』(1980年、みすず書房