苦雪のブログ

本やゲーム・映画についての感想を備忘録代わりに時折書きます。基本敬称略。

自己紹介にかえて:私の中の印象に残る作品

  自分用の備忘録も兼ねてブログを開設!……したはいいもののほぼ二ヶ月放置した挙げ句、年を越えてしまった。こうなると、さて最初に何を書くべきか逡巡してしまう。そこで思い切って、2020年1月現在に至るまでの自分にとって印象深い作品をいくつか選び、その中でもミステリーについて語ることで自己紹介をしようと思いついた。

 

 

 そう考えると、丁度自分の好きな作品を10冊あげたツイートがあった。それも尽くミステリー。よしこれを使おう――そう考えてこの文章を書くことにした。

 

 以下で語るのは、いずれも自分が本を読むにしろゲームするにしろ、大げさに言えば一つの基準点・参照点・比較対象となっているものだ。この文章を書いている苦雪というのは、こういうのが好み。そんな所だろうか。作品の具体的なネタバレ(要はWho done it? や How done it?)は避けているが、紹介の都合上内容に言及している所がある。念の為、ご注意を。

 

 

 

原点:高校生のころの『水車館の殺人

 厳密に言えば、最初に読んだミステリーは、小学生の頃のポーの『モルグ街の殺人』だったが、本格的に本を読み始めたのは中学生。中学から高校にかけて色々読む中で、田中芳樹の『銀河英雄伝説』に出会ったり、いわゆるライト文芸では奈須きのこの『空の境界』やら野村美月の『文学少女』シリーズを読んだりした。当時、広義のミステリーとしては吉村達也の本を色々読んだ覚えがある。

 綾辻行人有栖川有栖に出会ったのは、まさにその頃だ。これがいわゆる新本格作家との最初の出会いだった。だがその当時、綾辻行人と言えばどちらかと言えば「『Another』の人」な感があり、そんな中で『十角館の殺人』から入ったのが自分だった。有り体に言えば、これをきっかけにミステリーを読むことを本格的に趣味とし始めたので、自分にとってはやはり新本格、それも第一世代が一つのベースラインになっていると思う。

 特に綾辻行人からは、作品の内容・展開・文体や表現方法、氏がミステリーに求めるものは「どんでん返し」という考えも含め、非常に多くの影響を受けていると思う。

 だからそんな自分にとって、何よりも重要なのが綾辻行人の『水車館の殺人』であり、氏の作品の中で一番好きな作品だ。それは、この作品がミステリーとして面白く優れていると考えると共に、今現在のミステリーの多様性を象徴するがごとく、作品内に多くのものを内包しているからだろう。

 綾辻行人と言えば、本格ミステリ=雰囲気論でも有名だが、その初出はまさしく『水車館』のあとがき。実際、『水車館』には謎解きと論理の世界だけではなく、その向こう側の世界も存在している。それは、必ずしも論理では解明できない世界。怪奇? 宿命? あるいはホラー? あちらとこちらの境目はとても曖昧で、暗い靄のようなものがかかり、自らの足元すら見えない。そんな『水車館』の世界は、今現在も含めて綾辻行人のもう一つの原点とも言えるのではないか、と思う。

 そんなわけで『水車館』は自分にとって「ミステリー」というものの多様性・複雑性だけでなく、多くの作品にミステリー的な要素が内在し得ることを教えてくれた作品だ。

 

 もちろん、それ以外にも思い出深い作品は多い。先に上げた田中芳樹の『銀英伝』なんかはまさにそうだし、後で取り上げる日明恩高野和明の作品も最初に読んだのは高校生くらいのときだし、島田荘司の『異邦の騎士』や鮎川哲也の作品なども読んだ。

 そんな訳で、最初に読んだ島田荘司作品が『異邦の騎士』という暴挙を行ったのが私だ。歳月も経ち、当時どのようなことを感じ取り同書を印象深く思ったか、もはや思い出せない。

 今現在何か言うとすればこの作品は、その人のあり方を変えてしまうような出来事を描いたものである。それと共に、しばしば探偵と犯人の戦いが、神と悪魔の戦いとか神の座を争うゲームだとかに擬せられることもあるミステリーに対する、ある種のアンチテーゼなのだと思う。時に人は道具のように扱われ、時に人はただ神の言葉を信じるしかないという、ある意味この上なく非人間的なミステリーのお約束に対して、本作は人間を描いているという点で、まさしく異邦なのだと思う。

 

 他の新本格作家も読んだ。有栖川有栖は、国名シリーズ(いわゆる火村シリーズ)から入ったが、綾辻行人との対称的な作風の違いに驚いた覚えがある。

 高校卒業までに、当時出ていた綾辻行人作品と、火村シリーズは大体読んだと思う。法月綸太郎の『法月綸太郎の冒険』と『新冒険』も読んだが、なぜかその当時は氏の長編を読まなかった。たぶん「死刑囚パズル」と「カニバリズム小論」を読んで、この作家はエグイ……と思ったのかもしれない。

 ともあれ、やがては大学受験もあり、大学に入ってからは私事や勉強に追われることになる。合間に読書は続けていたが、ミステリー以外も読んでいたし、他にもゲームをプレイするやら何やらで、必ずしもミステリーを熱心に読んでいたとは言えなかった。月日が経つ中で、昔読んだ作品の内容も忘れていき、たまに『銀英伝』やら綾辻作品を読み返す程度だった。好きな作家は綾辻行人有栖川有栖です、と思っているくせに学生アリスシリーズすら読めていなかった体たらくだ。

 

ミステリー熱再燃:大人になってからのエラリー・クイーン

 大学の学部を卒業してしばらく経ち、2018年。息抜きと現実逃避を兼ねて、偶々、法月綸太郎『頼子のために』を手にとった。

 『頼子のために』は、娘を殺された父親が犯人に対して復讐し自死を選ぶに至るまでの心境が綴られた手記で始まる。

 そこで語られるのは、娘への愛、犯人への憎しみと怒り、犯行後の父親の心境であり、読み手を鋭く惹き付ける。

 そして作中探偵・法月綸太郎の捜査の過程で、一連の事態の中で蠢く人間たちの情念、いわば動機――なぜ(Why)?の問題が明らかになるのだが、これがあまりにも悍ましい。その動機は、当人達からすれば理由あるものだ。

 しかし傍から見ればその行いは、自らのエゴとその結果が他人をどれほど傷つけるのか微塵も配慮せず、むしろ分かった上で他人の尊厳を踏みにじっている節すらあるという真に最低の発想の現れに他ならない。たちが悪いのが、そこで「愛」というものが持ち出されていることだ。いわば、「自分はこんなに辛いから、こうするしかなかったし、他にしようがなかった。なぜなら自分は○○を愛しているから」というものだ。自分の愛する対象さえいれば、自分の愛するもののためなら、他はどうなっても構わない――。そんな発想の醜悪さをたっぷり見せつけられ、読了したその日はずっと引き摺った。

 幸い自分は基本寝たら忘れるタイプなので、次の日は多少持ち直したが、それでも辛かった。そんなとき、『頼子のために』の実質的続編の『ふたたび赤い悪夢』があると知り、早速古本屋で注文した。

 読んでみて、この小説が描き出した「名探偵の苦悩と再生」というものに強く惹きつけられた(なにせ1年間で3回も読み返した)。そして、法月綸太郎がモチーフとし意識するエラリー・クイーンというものに興味を引かれた。思えば、綾辻行人にしろ有栖川有栖にしろエラリー・クイーンについて作品内で言及することがあった。新本格作家をこれほど魅了する作家というものに、いつの日か手を出してみようと思ったし、同時にいわゆるミステリー熱というものが再燃した。

 例えば、読めていなかった有栖川有栖の学生アリスシリーズも読んだし、高木彬光の神津恭介ものにも手を出した、ご無沙汰していたミステリーの新刊をハードカバーで買うという行為にも意欲が向いた。

 

 話を戻そう。私事等も含め色々あったため、最初にエラリー・クイーンを読むことになったのは2019年4月に東京創元社から出た『Xの悲劇』の新訳版においてだった。一先ずドルリー・レーンシリーズを読み、国名シリーズ途中まで→後期作品群一部をつまみ食いという方法を取った・エラリー・クイーンについては全作品(ジュブナイル系や名義貸しは除く)を読み終えることができたら、また改めて書きたい)。

 ともあれ、1年近くの時間を経てエラリー・クイーン『十日間の不思議』と『九尾の猫』を読んだ。この二作品は、クイーンの人物描写や筆致からして素晴らしく(例えば、『十日間の不思議』の「良きアメリカ人の息子と美しく聡明な新妻」、『九尾の猫』冒頭、クイーン警視による被害者に関する説明あたり)、小説としても極めて秀でているのだが、見るべき所はそこに留まらない。

 法月綸太郎自ら仕掛けているように、『頼子のために』と『ふたたび赤い悪夢』、クイーン『十日間の不思議』と『九尾の猫』は提示されるテーマというものが極めて似ている。いずれも、先に「名探偵の探偵行為あるいは彼の行いそのものに対する是非」を問い、続く作品で「名探偵の存在意義・役割」というものに踏み込んでいる。

 クイーンと法月の至った場所・地点(あるいは前者についての後者の解釈)について具体的に語ることは、それ自体ネタバレになりかねないが、おそらくそれは「探偵の行いへの懐疑を抱き、それでも尚己の役目を果たせ」という「父」からの啓示であろうし、法月は「何が正しいのか・何を為すべきかを常に問い続ける『砂漠』へ歩むことを」探偵に決意させたのだ。

 

 しばしば後期クイーン(的)問題と言う言葉が出てくるが、これにはまず作中で提示された探偵による推理が真の解決であるかどうか、(探偵も含めた)登場人物は究極的に知ることはできない、という論理上の問題がある。しかし、『十日間の不思議』と『九尾の猫』で描かれた問題とはそれに留まらない。

 そこには「探偵の推理や作中における真実は本当に正しいのか」という問題に加えて、「他人の人生をも左右し得る、探偵の行いそれ自体が本当に許されるのか」という2つ目の問題が存在する。後者は、探偵の行為それ自体が倫理的・道徳的(etc)に照らして許されるのかという問題だ。前者が、真実を追求する探偵の役割・機能に関する問題ならば、後者は、探偵とその行為それ自体の是非に関する問題だ。

 あるいはそこから派生して、探偵の役割も問われる。探偵は真実を追求するだけで良いのか、探偵は倫理・道徳・法などの別の観点も考慮する必要があるのか(倫理・道徳・法の間でも相対立するかもしれないのに?)という問題が出てくるかもしれない。

 そのときから私にとって、上の問題がずっと気になっている。この問題にアプローチした作品は相当数あるが、印象に残っているのは城平京『名探偵に薔薇を』や北村薫『冬のオペラ』、麻耶雄嵩の作品(特に『翼ある闇 』と『名探偵 木更津悠也』、最近では阿津川辰海の『名探偵は嘘をつかない』と『紅蓮館の殺人』だろうか。特に阿津川氏の作品は上の問題両方の点から興味深いと私は思っている(少なくとも探偵の役割・意義というのは確実に意識されていると思う)。

 

人間と時代

 もっともエラリー・クイーンが興味深い理由はそれだけに留まらない。未だ全作を読めていない身なれど、クイーン作品を読んでいると、しばしばエラリー・クイーン(ひいてはフレデリック・ダネイとマンフレッド・リー)というのは、「時代の子」であったと感じることがあった。

 

 すなわち、国名シリーズで言えば1920年代~30年代の大都市ニューヨーク、メトロポリタンで生じる数々の事件、大都会の街並み・文化(劇場や興行、デパート)あるいはその裏で蠢くマフィアや麻薬等々……当時の風俗を感じ取れる描写は枚挙に暇はない。

 ただ私はこれだけで「時代の子」という言葉を用いたわけではない。本題はむしろ、現実のアメリカが第二次世界大戦に参戦するようになった時期以降の作品にある。

 第二次世界大戦前後あるいはその最中、自由の国アメリカの内部で生じた出来事は必ずしも明るい話ばかりではない。一々挙げないが、国内の「自由の敵」とされた存在に対して苛烈な側面があったことは事実である。それは戦後においても収まらるどころか続くこととなり、1950年代前半にはマッカーシズムの嵐が吹き荒れる。国家や共同体・集団にひとたび敵と定められればどうなるか。ダネイとリーはそんな時代を生きていた。

 

 そういう点を踏まえると、『災厄の街』でのライツヴィルの住民が敵に回る展開も、『九尾の猫』のニューヨークの人々の恐慌状態も、見方が変わり得る。

 これは穿ち過ぎかもしれない。だが、まさしくマッカーシズム下のアメリカを反映した『ガラスの村』においては、共同体が敵と定めた人間に対していかに容赦なく振る舞うかが描かれると共に、そのような中で「信念から生まれた理性と慈悲」(ハヤカワ文庫版『ガラスの村』280頁)を守り貫くことがいかに厳しいかが描かれた。

 第二次世界大戦に従軍したジョニー、そしてウェブスター元判事は理性と弱き者のため、シアー牧師は信仰のため、そしてシン判事は真のアメリカの理念、つまり憲法と自由・立憲民主主義と正当な訴訟手続(同138頁)のため闘うという構図は、他ならぬエラリー・クイーン自身の態度表明でもあるのだろう。

 そもそも『Zの悲劇』において死刑制度について語り、死刑囚の逃亡による街の騒動を描いたのがエラリー・クイーンだった。こうしてみると、『災厄の街』において「アメリカを発見」したということが意味深に思えてくる。どこまでクイーンが意図していたかは不明だ。しかしメトロポリタンではなく、ライツヴィルや〈シンの辻〉をこそクイーンがアメリカと捉えていたとすれば、『災厄の街』や『ガラスの村』のあの展開が、アメリカというものの二面性を描写したものと理解するのは、荒唐無稽とまで言えないだろう。

 

 あるいはもう少し後の『帝王死す』はどうだろう。時代の影で、国家や世界全体すらも支配する力を持つ軍産複合体とその独裁者一族。圧倒的な権力に翻弄される中で、エラリーはそれでも手段の正しさを教える聖書とデモクラシーを信じ、殺人は間違いだと考える(ハヤカワ文庫版『帝王死す』161頁)。

 こういった点を踏まえると、エラリー・クイーンという作家は自らの生きた時代と向き合い、理性や理念というものを手放さないという信念を自らの作品をもって表明したのだと思う。その点でもエラリー・クイーンという作家は興味深いし、その姿勢は当時の文脈を超えた普遍性をも持っていると私などは考えている。

 

 少し話が脱線したことは否定できない。しかし、私にとってエラリー・クイーンという作家が、「ミステリーにおける探偵の役割や是非」を問うたという点でも、「自らの生きた時代に向き合った」という点でも興味深い存在であることはどうしても述べておきたかった。

 もちろん人は誰しも時代の子で、作家の作品が当時の時勢を反映している云々というのは、わざわざ文学研究の話まで持ち出す必要もないかもしれない。しかしミステリーの中には、特定の社会問題を扱った作品も少なくはないし(今ではこういう作品を社会派ということもあるそうだが)、社会問題がしばしばセンシティブな問題であることに鑑みるなら、エラリー・クイーンの姿勢というのは一つの例として顧みても良いのではくらいのことは思ったりする。

 

 しかし社会問題を扱うことは難しい。しっかり調べる必要があるだろうし、参考文献がちゃんとしているかも大事だろう。酷いのになると、紋切り型の主張や世間で蔓延る偏見を垂れ流しているだけだったり、「作者の顔」が露骨とか作者のお人形遊びにしかなってない場合もある。

 特に社会問題を扱った作品では、登場人物を血肉の通った人間として描くことが最も難しいのではないか、と思う。もちろん、これはそもそも創作物全般につきまとう「読者に対する説得力」の問題の一つかもしれない。だが、社会問題を扱った作品において、特定の人物が、自らの人生や過去の経験を通じていかなる信念に至り、いかなる行動理念を持っているかということを、読み手に説得力あるものとして示すことは特に難しいと思う。

 

 そういった意味では、エラリー・クイーンのように自らの主張をしっかり打ち出しつつ、それが同時に小説としても成り立っていて、作者の顔が露骨ではないというのは稀有だ。

 『ガラスの村』に登場する〈シンの辻〉の人々。彼らは「信念を持っている民衆」(103頁)と称されている。もちろんここでいう信念は、シン判事らのそれとは異なるものだ。作中示唆されるように、アメリカの伝統的で素朴な清教徒精神かもしれないし、共同体の中に入り込んだ異物・自分たちに同調しないものに対する人間の本能的な敵意かもしれない、あるいは作中の過去で〈シンの辻〉において生じた事件の際、住民たちに植え付けられた「外側」への不信感かもしれない。村中で尊敬される老婆が、独立記念日の翌日に殺されたことも原因かもしれない。

 シン判事にしろ、ジョニーたちにしろ、あるいは読者たる我々にしても、〈シンの辻〉の人々との違いなど、偶々外側にいたかどうかの違いに過ぎない。似たような原因・過去さえあれば、容易に人は同じような道を歩むかもしれない。ジョニーは兵士としての戦争経験、判事なら長年の様々な経験、シアー牧師なら己の信仰といった背景が、それぞれの信念と選択をもたらした。だけど、それは他人との偶然にも等しい違いでもある。もしそれがなければ……?

 実際、クイーンの感覚が非常に鋭敏なことの証左として、『災厄の街』や『ガラスの村』での人々の描写が鮮明かつ丁寧なことが挙げられよう。ライツヴィルの人々も、〈シンの辻〉の人々も事件が発生するまでは、ただ平穏に日々を生きる素朴で人当たりが良い人間として描かれている。彼・彼女らは顔と個性を持った(どこにでもいそうな)人たちだ。

 一方、事件が起こったとき彼らの正義感や義憤の全てが襲いかかってくる。その対象となる『災厄の街』のジム・ヘイトにしろ、『ガラスの村』のコワルチャックにしろ、良い面がないわけではないが、正直かわいげがないというか、好感を持てそうにないタイプだ。

 特に、コワルチャックは、(当時社会主義国であったポーランドからの移民であることも村人の敵愾心を煽ったのだが)、描写から判断するに、身なりがよろしくないとか、英語が上手くないとか、(村人から見て)態度がよくないとか、「盗みはしたが殺人はしていない」という主張をしていることが、悪印象を与えてしまっているというのがよく効いている。

 コワルチャックに対する印象があまり良くない上、自分たちの周りで尊敬されている人間を殺した容疑者で、かつ「盗みはしたが殺人はしていない」という主張をしていたとき、彼の無実を信じられるか――実際にその場にいたとすれば、信じ切るのは難しく半信半疑のまま、推定無罪の原則とか疑わしきは罰せずの原則に縋り付くのがやっとかもしれない。読み手にそう思わせる技術は、相当なものだ。

 『九尾の猫』も同様だ。ニューヨークを恐慌に陥れる「猫」。その犠牲者たちは、家族を持ち、血の通った人間だ。幸福も不幸も人生の希望も絶望も持った人間だ。それが「猫」により奪われる。残された家族の悲哀は計り知れない。ではそのような所業を行う「猫」は何者で、なぜそのようなことをするのか? 

 あるいは『帝王死す』の終盤では、エラリーはライツヴィルに飛ぶ。それは一連の事態を招くことになった関係者たちの過去を知るためだ。過去の経験や因縁が今の事件に繋がる。もちろんこれ自体は、国名シリーズにおいても登場する構図だ。しかし後期シリーズにおいては特に、この要素が顕在化していると思う。

 

 エラリー・クイーンの作品に対する評価は、その人がどのような所に着目するかで変わると思う。私自身は、ここまで述べてきたことからも分かるように、クイーンが人間や社会というものに真摯に向き合って格闘した『災厄の街』、『十日間の不思議』、『九尾の猫』、『帝王死す』辺りが好きだ。そうした態度を前にして私ができるのは、ただ敬意を表するのみである。

 

人間と過去

 ここまで述べてきたのは、人間と時代・社会とでもいうべき問題だった。しかしそれに留まらない「人間にとっての過去」という観点から見ることもできるだろう。

 「人間と過去」というテーマを描いたものとして、まず挙げたいのがアーナルデュル・インドリダソンの作品だ。

 インドリダソンは、アイスランドの作家で代表作「エーレンデュル警部シリーズ」は日本でも何作か邦訳されている。その作風は一貫して、人間に重くのしかかる過去の痛みを描くことにある。

 具体的な内容に立ち入るのは控えるが、邦訳第一作目の『湿地』やそれ以降の作品は基本的に、被害者がなぜ殺されたのかを追う過程で、その過去が明らかになるという形を採る。

 インドリダソンの作品を読んでいると、アイスランドの景色の鮮やかさや切なさと共に、人間にとっての過去がどれほど分かち難いものか教えられる。人は過去から逃れられず、過去の傷や痛み、そして罪は消えることはない……。

 過去から逃れられないのは、主人公のエーレンデュルとて例外ではない。過去は事件を追うエーレンデュル警部自身にも重くのしかかっている。彼のプライベートははっきり言って荒廃していて、『湿地』時点では妻とは離婚、二人の子どものうち、娘のエヴァ=リンドはドラッグ中毒な上妊娠中。援助を求めてエーレンデュルの住居に現れては口論になる。エーレンデュルは娘を助けたいという思いを抱えつつ、エヴァの態度に戸惑いや苛立ちを抱えることもしばしばだ。少なくとも、エーレンデュルにとってのエヴァというのは必ずしも温かい家族とは言い切れない面も多い。

 しかし、シリーズ後作『声』でエーレンデュルの過去の一部やトラウマが明らかになり、『湖の男』からは息子のシンドリ=スナイルが登場することで、エーレンデュルにとってのエヴァが「自分とは違う人間」から、「痛みを抱えた人間」とに変わっていく。

 ここに至り、インドリダソンの作品で、しばしばメインテーマ(事件)に付属しているかの如く見えたサブテーマ(主人公の家庭環境)が、実はどちらも「人間に重くのししかかる過去」という一貫したテーマで描かれていることが明らかになる。

 

 有栖川有栖『鍵の掛かった男』は氏の作品の中では少々毛色が異なるが、火村シリーズで私が一番好きな作品だ(学生アリスシリーズでは、『孤島パズル』。それ以外では、ソラシリーズが気になる所)。

 この作品は、警察はおろか探偵役すら自殺と考えた人間の死に、ワトスン役のアリスが疑問を持ち捜査する。まずここからして面白い。アリスの捜査は、死んだ人間が誰かを解き明かす過程で、まさしく人を知り理解することでもある。

 人が死に至るまでの過去。殺される理由としての過去。人が生きる理由としての過去。人間の行動原理の一つに過去があることを思い出させてくれるだけでなく、「鍵の掛かった男」というタイトルの意味が洒落ている。

 人を知り理解することで真実を明らかにしようとしたアリス。けれど人は常に相手を理解できるとは限らないし、人の過去を知ることができるわけではない。実は、この作品は有栖川有栖作品に時折出てくる「淋しさ」にもつながる。

 

 過去を知ることで人を理解することはできる。その一方で、人間同士には必ずしも理解し合えない所や踏み込めない所がある。

 梓崎優『叫びと祈り』はまさにこの点に踏み込んだ作品で、「人が自らとは異なる他者と分かり合うとは何か」を徹底して描いている。異国の地の風景とそこに住む人々を通じて、我々とは異なる論理・倫理が示される。暖かさと冷たさ、美しさと醜さの両方が含まれ、両者は容易に切り分けられない。時に他者との共感を可能とするそれは、時にはただただ絶対的な断絶しかもたらさないときもある。

 タイトルが「祈りと叫び」ではなく、「叫びと祈り」となっているのは単なる語呂や語感の問題ではないと思う。先に叫びが来て、後に祈りがあることに意味があると思う。

 

読者に向けられた問い

 少し切り口が異なるが、日明恩『そして、警官は奔る』にもここまで述べてきた要素がある。これはシリーズものであり、日明氏のデビュー作『それでも、警官は微笑う』の続編だ。3作目の『やがて、警官は微睡る』はやや異色作な上、それ以降は多少作風が変わっている感は否めないものも、基本的には社会問題をテーマに、それに対して警察官は何をなすべきかという問いが描かれる。

 このシリーズには二人の主役がいる。一人目の武本巡査部長は無口で無骨な人間。二人目の潮崎警部補は、茶道の家元という名家出身で警察小説マニア。純粋な思いから警察官に憧れた潮崎はその出身と「空気の読めなさ」から警察組織にとっては異物。

 潮崎はミステリーの中に出てくる警察官に憧れ、自身も警察官になった。しかし実際の警察官は理想や憧れた通りにはいかない。潮崎は作中で、しばしば「こんなとき◯◯刑事だったら」的なことを言うが、理想と現実との相克を念頭に置いて発言していることも多い。

 そんな潮崎にとって、ある種救いとなったのが武本だ。自身の感情表現や意思表示が得意ではない武本。しかしその根底には、自身の不器用さを自覚しながらも、真摯に「法と正義を追求する警察官」たらんとする思いがある。目の前の相手への誠意を持って向き合おうとする姿勢がある。

 『そして、警官は奔る』には武本と潮崎に加え、二人の警官が登場する。一方は、冷血を体現する和田。罪を犯す者を許さず、取調べ中に相手の心を折るような言動を繰り返す。もう一方は、温情を体現する小菅。人の更生を信じ、いかなる相手にも穏やかに接しようとする。

 両者は対極的な存在だが、必ずしもそうとは言えない。和田はかつて職務熱心で家族思いの模範的な警察官だったが、とある一件から警察や法の無力を知ってしまい、堕ちてしまった。小菅も、自らの信念が現実の前に裏切られることを自覚しつつ、それでも人間を信じ改心を信じるという選択を常にしている。

 

 作中、小菅と和田は対極的な人間として描かれる。しかしこの二人は対極的ではあっても、対立しているのかというと、必ずしもそうとは言い切れない所があるこれには、まず和田に対する印象というものが、ページを読み進めていくと徐々に変わっていくというのもある。

 しかしそう考える理由は、それだけでない。(ネタバレギリギリのラインだが)和田という人間の根底にあるものは何なのか、彼がいまでも警察官で居続ける理由は何かが作中において明らかになったとき、和田という一人の人間のあり方が読者の前に提示される。

 それと同時に、和田と対称的な人間である小菅の信念・温情がどれほどの覚悟とを持って表明されていたのかも示される。あり方の違う対称的な二人の警察官の姿は、表裏一体に写ると共に、この上なく接近する。

 現実を前に理想を信じ続けることは難しい。しかしそれでも、人が捨ててはならないものは何か。もし法と人道の間で二者択一を迫られたとき、警察官は――あるいは読み手は――どうすべきか? 

 

 『そして、警官は奔る』で描かれるのは、法と制度の狭間に落ちた声なき者を救うことの難しさだ。日本国内にいる無国籍の子ども、不法滞在外国人を救うため、善意・人道から法を冒してしまう人々がいる。

 例えば、純粋な善意からそれを助けた人間、家庭を顧みず研究や社交に没頭した過去を悔やみ、贖罪から協力する人間。そんな人々を黒幕は嘲笑う。自らは何ら法に違反していないことを武器に、人の善意も過去も、法と人道の間で揺れる人間の心や悩みも、現に苦しんでいる声なき人々も、まとめて愚弄し搾取する。では、黒幕はなぜそんなことをしたのだろうか。善悪は捉え難く、分かちがたい。黒幕の行いは、所業も自己正当化等々含め紛れもなく醜悪だが、他方でこの上なく人間の所業でもある。

 黒幕は、武本も潮崎も和田も小菅も等しく蔑視する。ここが一つのポイントで、対称的な存在に見えた和田と小菅の距離が相対的になると共に、和田と小菅、黒幕と和田、黒幕と小菅の3つの対比が行われている。

 それだけでなく、このときの各人の反応がそれぞれの個性をよく表しているし、特に武本と小菅の答えを導き出した作者の手腕は、素晴らしいと思う。

 私は、この本をこれまでの人生で三度読んだ覚えがある。本書を読む度に、私は深刻でセンシティブな問題に対する作者の誠実さを感じたし、そうした問題に対する読み手の安易な答えや即答を封じようと筆運びに、敬意を抱いている。

 

 高野和明13階段』もそうした作品だ。

 しかしながらこの作品について、私は多くを語る言葉を持たない。この作品は、ミステリーとして優れていることは言うまでもないが、その本領は死刑制度への丹念な調査と誠実な向き合い方、登場人物たち自身の固有の事情や境遇を踏まえた上で、人としての行動・悩み・信念を描いたことにある。

 作者は、死刑制度と罪・罰に対して、「安易な答えを出さず、読み手にも覚悟を問う姿勢」を求めている。私にはこのようにしか表現できない。安易な答えや通俗的な極論を発することはできないし、単に「考えさせられる」とか「感動した」なんて言葉を述べて済ませることも、何だか失礼な気がする。

 ただ敢えて野暮なことを言えば、『そして、警官は奔る』、『13階段』両作ともリアリティに根ざしたフィクションではあるが、これらの作品で描かれた問題が、必ずしも小説の中で描かれたような形で現れるとは限らない。現実のそれはもっと複雑で目に見えにくいかもしれないし、逆にもっと単純であからさまかもしれない。

 あるいは一方では法、もう一方に人道とか人の感情とか倫理があって、両者が対立しているように見ることそのものが、ナイーブな見方かもしれない。そもそも法と倫理は目するところが異なるものであって、時に近づくこともあれば、時に遠ざかることもある。二項対立的な図式の中で持ち出される「法」というものを、単に倫理や人道の障害としての冷たい存在と決めつけてしまうのは、法が何のためにあるのかを見失わせてしまうかもしれない(この辺りに関わる話としては、フェルディナント・フォン・シーラッハ『コリーニ事件』など面白いので、興味のある方は是非読んでみて欲しい)。

 

 何が言いたいのかというと、フィクションをきっかけに何かを考えるようになることは間違いなくある。リアリティを備えたものなら尚更だ。けれど、その一方で考えるきっかけとなったものが、あくまでもフィクションであることも注意しておかないと足元を掬われてしまうかもしれない。少なくともこの文章を書いている人間は、(傍目から見れば)そんな面倒なことも一々考えずにはいられないタイプなのだ。

 

 おわりに

 以上、ここまで1万字超えの文章を綴ってきた。テンションがあがると、まとまりもなく冗長な文章を書くのは悪い癖だがお許し頂きたい。

 この文章を閉じるにあたって、一点釈明を。『そして、警官は奔る』や『13階段』などは、読者の安易な答えを禁じている(と私が勝手に思っている)と書いた。

 私は、例えば死刑制度とか無国籍の人々、法と人道の二者択一になったりするようなケース……つまり重要な社会問題とかで専門家ぶったり、その問題に対して一家言述べるつもりは一切ない

 ついでに言えば、『そして、警官は奔る』にしろ『13階段』にしろ、なんなら『ガラスの村』や『帝王死す』にしろ、作品内における多様な文脈や設定を踏まえた上で、安易な答えや極論を封じ、何らかの問いを発し、答えを出そうと試みている作品であるからこそ、読み手である我々はそれを意識し尊重しつつ、決して絶対化すべきではないと思う。作品の問いや答えが普遍性を有する可能性があるからこそ、そこは一番気をつけなくてはならない。この点は強調しておきたい。

 

 というのも、私など毎日起きて寝て何か食べると共に、仕事したり、ミステリーやライト文芸やら小説を読んだり、PS4を起動してゲームしたりソシャゲしている。自分で挽いた豆で飲むコーヒーや喫茶店での美味しいコーヒーが好きだし、友人とくだらない話で盛り上がるのも好きな、ただの人間だ。読書やゲームもコーヒーも私にとって大事な趣味だし、ある意味耽溺していると言っていい。

 しかしこれは私自身の経験でもあるが、趣味しか見ていないと、自分と異なる趣味や考えの人、サークル・グループの人と自分は違う種類の人間だ、なんて考えがちだ。私はそれが嫌だなと思うし、趣味だけに耽溺して生きることへの後ろめたさのようなものもある。

 

 少なくとも私は、自分とそのアイデンティティー を、 趣味と答えることには違和感がある。友人との会話では品がないこと・バカなことを言ったりするがそれをそのまま公然と発するのはよろしくないのと同様、自分が趣味を通して得たものを表現する際にはある程度の配慮とか節度やマナーも大切なのでは……?と心の片隅で思っている。

 だからといって何かできるわけでもなく、このブログで逐一何か書いたりするわけでもない。せめて心のどこかでそこは意識していたいな……くらいのある意味卑怯な考えだ。けれど、このブログでは今後趣味に対して色々書いたりする予定だからこそ、敢えて今後一々言わないし、あまり表面に出したくないことをこうして書いた。

 こんな面倒で回りくどい人間の言うことに、どれほどの需要と面白みがあるかは不明だし、不定期更新確実な本ブログだが、もし誰かの無聊を慰めることができれば、それが何よりの幸いだ。