苦雪のブログ

本やゲーム・映画についての感想を備忘録代わりに時折書きます。基本敬称略。

相棒Season21 第15話「薔薇と髭と菫たち」

 

 亀山復帰のSeason21。

 今シーズンの中では、4話の「最後の晩餐」と並んで15話の「薔薇と髭と菫たち」がTopに入る。

 

 

 4話は、右京と亀山それぞれが得意とする分野で活躍しつつ、その持ち味を遺憾なく発揮できていたのがいい。推理の右京と動く亀山だけでなく、理で諭すことで救う右京と説得することで救う亀山が見られたというのが、評価を高くする。

 4話は、最初に視聴者に匂わせていた真相からもう一段回あるという二段階的なストーリーなのだが、ミステリー的なことだけでなく、見せ方も上手い。独身貴族の男→実は娘がいた→娘は詐欺師→子どもがいたことは嘘ではなかった(そのヒントも実はあった)という具合に。

 死ぬことを考えていた堂島が気がついていなかっただけで、心配してくれる人(行きつけの店で働く女性)や大切なもの(息子)は実はすぐ近くにあった。そこに気がつくことさえできればまだ戻れるという話が相棒ではよくテーマになるのだけど、まさにそういう話だった。

 

 似たようなことは、元日スペシャル第11話「大金塊」にもある。正直、ミステリー的には「金塊を見せる」という行為から金塊強奪の真相があからさまっぽかったのと、相棒にありがちなAIやディープ・フェイクを便利な小道具扱いしてるのがマイナスで、探偵団とかも賑やかしな感じが強かった。

 ただ、再登場した袴田議員の人物像というのは面白かった。実は清廉な政治家を目指していて汚職して築いた地位にうんざりしているというのは意外性もあって引き込まれたし、内調との関係も倦んだ思いをますます悪化させる要因だったというのは、結構好きだ。

 子どもの頃に、祖父に貰ったミステリー小説を母親に焼かれた息子は、今でもミステリーを好きなままでいた。そんな息子は、大人になっても父親を「先生」と呼び、秘書として接しなくてはいけない。

 だから、敢えて金塊強奪事件を起こすことで父親を倦んだ思いから解放してあげたかったというのが動機なのだが。亀山が、息子に対して「お父さんの果たせなかった立派な政治家になれ」って激励するのが、本当に彼「らしい」。いい年こいて子どものように泣きながら「ごめんなさい、お父様」っていう息子を抱擁する父親という絵なんて、傍から見ればみっともない・情けない・無様とか言われそうだけど(実際、袴田の妻からしたらそういう姿は否定されるべきものだろう)、彼らの尊厳というものはようやくそこで取り戻されたのだ。

 同じ政治家一族の業なら、Season19の5話「天上の棲家」のが上かなと思うのだが、それでも袴田議員は、最後の最後の行動はけじめをとる・矜持を見せたとも取れるわけで、散々引っ張った鶴田官房長官よりは余程いい終わり方を見せてくれた。

 

 さて、今回のタイトルの「薔薇と髭と菫たち」。脚本家は、同じシーズンでは13話の「椿二輪」も担当している*1

 この「薔薇と髭と菫たち」、話としてはこれ以上ないくらいシンプル。なのだが、一つ一つの場面が真綿で首を締め付けられるくらい辛いものだった。

 まず、少女小説家のノエル美智子のサイン本を捨てたシングルマザーの菫の生活。これが、隙間風のひどい家の中で娘が暖房をつけずに厚着して生活している・給食費の納入が遅れている・母親は娘の卒業式に来ていくスーツがなくレンタル、と既に「貧困」とは何かを、これ以上ないくらい見せつけてくる*2

 そんな菫も昔は、ノエル美智子の小説から「希望」を得ていた。少女たちに小説を通して「人生の希望」を与えていたノエル美智子、社会の悪を追求してきた鬼塚一誠の嘆き・絶望とは、読者に訴えかけていた「この世界は美しく、人生は喜びに満ちている」という希望が現実には待っていない、若い人をずっと騙し続けていた自分たちこそ一番の「悪」ではないか、というものだ。

 

 かつて希望を得てサインまで貰った本を手放すくらい、菫は人生に追い詰められた。ノエル美智子はフードバンクのボランティアをしたり支援活動をしていく中で、かつての愛読者が追い詰められていることを知って、ますます作家としての自分が読者に与えていた希望は何だったか、自問自答していたわけで。

 その一方、事件を解く鍵もサイン本という小道具にあったというのがミステリー的には唸りどころ。本の状態とサインの筆跡が実は手がかりであり、その意味に気がつくとかつてのサイン会の場面もまた違った光景として映る*3というのが、構成の妙だ。

 

 ルポライターの鬼塚と少女作家のノエル美智子の夫婦は、お互いがお互いに扮していた――ノエル美智子は夫の方で、ルポライター鬼塚一誠は妻――これが提示されるとそれまでの場面・場面がガラッと変わる。

 夫の取材に妻が同行していたのは、緊張をほぐすためではなく、取材のため。口下手な夫へのフォローは、元々彼はそういうことが苦手だったから。フードバンクの手伝いは、夫の取材への協力ではなく、本当の取材者が誰かを隠すためのカモフラージュ。夫婦二人が揃う場面では、鬼塚の話題が出たときに夫側が一瞬妻の方を見たりするなど細かい所で、実は役割を交換していることが示されている*4

 若き日の”ノエル美智子”が女だからという理由で記事を突き返されるシーン、若き日の”鬼塚”が少女小説を書く自身を気持ち悪いと言われたと告白するシーン。この回想、鬼塚とノエル美智子がお互いを活かすために今日まで生きてきただけでなく、この2人の何気ない仕草や性格は今も変わっていないこと、変わっていないからこそ今の社会を前にして”ノエル美智子”は心が折れそうになったこと、この全てを教えてくれるから好きだ。

”ノエル美智子”は昔と同様に聡明で真摯で正義というものを理解しているからこそ、心が倦んでいた。これは菫もそうで、彼女は戸籍を売るという行為が悪いことであると理解しているのだけれど、娘と生きるためにそうするしかなく、それが一層ノエル美智子の小説(とそれを愛読していた自分)を嫌悪させてしまう。”ノエル美智子”も菫も、人並み以上に聡明さや真面目さ、倫理観や責任感を持っていたからこそ*5、現実に対峙して余計に傷ついていたのである。だからこそ、”鬼塚一誠”が菫にもう一度渡すためのサイン本を握りしめていた――彼が現実を前にしてそれでも諦めていなかった――ことが、”ノエル美智子”と菫への救いになった。

 

 ルポライターの鬼塚一誠や作家のノエル美智子によって救われた人は確かにいて、ヒロコママは鬼塚のことを心から恩人と思っていたし、内村刑事部長は鬼塚を「夜の街」「友人の店」「自分の憩いの場」を守った人間と認識していた*6。右京はノエル美智子の小説を絶賛していた。

 ヒロコママや内村刑事部長がいるって実はかなり重要で、鬼塚一誠・ノエル美智子夫妻が若き日に”男”や”女”であることから侮辱され尊厳を傷つけられていたことを踏まえると、若き日の挫折から夫妻が菫のような女性だけでなく、ゲイであるヒロコママや警察の大物である内村も救っていたことになる。それは、ヒロコママや内村にとって夫妻が恩人であるだけでなく、視聴者に対しても夫妻のこれまでの行いはそれでも無意味ではなかったことを教えてくれる。

 現実を前にして折れた菫と”ノエル美智子”が、もう一度「希望」に立ち返る。それができたのは、”鬼塚一誠”が諦めなかったからだし、杉下・亀山のように正義や希望を信じる人がいたからだし、ヒロコママや内村のように救われた人がいたからだし、この物語の受け手である視聴者(もしかしたらそれは菫”たち”かもしれない)がいたからだ。

*1:こちらは、芸術に取り憑かれた末に美が見えなくなった人々と、芸術なんてものに縁のなかった人間が理解した美という対比、そこでようやく死した芸術家の偉大さが理解されるという終わり方が綺麗だ

*2:私個人の経験談を踏まえても、この描写は見ていて目を背けたくなるくらい貧困世帯の生活を活写していると思う

*3:愛読者からの「ずっとファンでした」という言葉で夫と思わず目を合わせたのは、夫の書いた小説が人の心を動かしたことを心から喜んだから

*4:ここで妻側は役割を熟すことができる一方、夫側は一瞬だけ妻の方を見たりと若干こなれていない感が出ているのがうまい。過去の回想シーンからも分かるように若い頃から物怖じせず意見を述べることができる女性に対して、やや内向的な傾向にある男性という素の性格が、アバターとしてのノエル美智子と鬼塚一誠との相違点として出てくることが明確に提示されるという丁寧さ。取材相手を怖がらせる夫をサポートして場を和ませる妻という役割を演じられる”ノエル美智子”の聡明さと実力、すなわちルポライターとして屈指の実力が示されているわけだ

*5:元半グレ集団の男性だって脱退したのは倫理観があったからだし、鬼塚を尾行したり現場から荷物を持ち去ったのもある種の真面目さや責任感のある人並みの思考を持っていたからと考えるべきだろう

*6:こういうの見ると、やっぱり内村刑事部長ってキレイになってからの方がキャラ立ってる