苦雪のブログ

本やゲーム・映画についての感想を備忘録代わりに時折書きます。基本敬称略。

『名探偵ポアロ:ベネチアの亡霊』:優れた翻案から捨象されたもの

 

 

 『名探偵ポアロベネチアの亡霊』を観てきた。なお同じシリーズの『オリエント急行殺人事件』(2017年)と『ナイル殺人事件』(2022年)は、未視聴。

 以下、本文では映画の内容(および原作の内容についても)を語る。

 

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おおまかな感想

 原作は、アガサ・クリスティ『ハロウィン・パーティー』(1969年)。映画の前に本を読んでから劇場に行ったが、楽しむには原作まで見る必要はない。一部の登場人物やモチーフこそ共通しているものの、舞台や話のネタから真相まで別物となっている。予習した身としては、逆によくこの原作をここまで面白く別物に変えてきたなと感心するほど

 例えるなら、原作は、良く言えばベテランの風格ある佳作、悪く言えばクリスティの過去作の既視感が凄く平板さも否めない。それに対し、本作は良く言えば挑戦的に大胆に本作を翻案して、悪く言えばモチーフからいいとこ取りしている。

 冒頭で書いている通り、この映画シリーズも今作が初見だったが、楽しめた。映像と演出が良く、物語も原作から捻られているので満足行くものだった。

 

映像と演出について

 冒頭の美しいヴェネチアの街並み、探偵活動休業中のポアロ、そこに訪れた旧友アリアドニ・オリヴァ。彼女に「探偵」としてのポアロの再起も兼ねて、ハロゥインの日に行われる交霊会に誘われる――という導入から今作は始まるのだが、ヴェネチアの運河を渡るゴンドラの描写がとても心躍るものだった。

 ハロウィンの仮装をする子どもたち、会場で行われる怪談、賑やかな喧騒、訳あり気な人々。徐々に仄めかされる暗い過去。影が後ろからこちらの背中を叩いてきそうな雰囲気が頂点に達した瞬間、落下するシャンデリア。ここまでの流れがかなり好きだ。

 

 正直、ホラー映画特有のジャンプスケアは好きではなく、今作でも3~4度その手の演出があったのは勘弁してほしかったが、それ以外の演出は不気味さと不穏さを煽るもので結構楽しめた。

 特に、ヴェネチアが大雨に見舞われる中、ポアロたちが滞在する屋敷が陸の孤島化するのだが、この水の猛威は今作の演出の中で、最も優れたものと言える。

 

 この映画は、場面の切り替えそれも日常からホラー、ホラーからミステリー的解決、ミステリーからまた怪奇現象へというの流れの転換のところで、大きな音を出すという特徴がある。ジャンプスケアは好きではないが、こういう意図自体は嫌いではない。

 交霊会での霊媒師の奇怪な動きから、ポアロが参加者の気を取り戻すかのように大音を立てて、仕掛けを暴いていくシーンはある種の痛快さがある。

 

怪奇の中に見出す合理

 ただし、交霊会でポアロが「探偵」としての本領を発揮して霊媒師のインチキを暴いたと思った瞬間、今作は微妙に(!)格子を外しにかかってくる霊媒師はインチキのペテン師だが、「それで救える人がいるからいいじゃん」と開き直ってきて、おまけにポアロ同様「戦争のトラウマ」を抱えた人間として、「お前も同類だろ?」と手招きしてくる。

 この辺りからポアロがおかしくなっていく。インチキ霊媒師から渡されたローブと仮面の仮装者らしく、アップルボビングをした瞬間、謎の人物に溺れさせられそうになり、そこから怪奇現象が起き始め……とあたかもミステリーがホラーを超克するかに思えた本作は、怪奇現象の世界に入る

 

 そしてこの辺りから、ポアロは足元を崩され始める。かつて亡くなった少女らしき幻覚を見たり、謎の歌声が聞こえたり、意識や発言もおかしくなっていく。

 それでも、ポアロは「探偵」として冴えまくっている。「友人」としてポアロを誘った推理作家アリアドニ・オリヴァと、元警官のボディガード、ヴィターレポルトフォリオが、霊媒師と組んで実はポアロを騙していたことまで、理詰めで暴いていく。

 このシーン、巷ではクリスティ自身がモデルとされる推理作家アリアドニの口から、ポアロに対して「天才探偵」だの人格破綻者だの好き勝手言わせるのが、皮肉のエッジとして利いている*1

 

 しかし、それでも今作のポアロ、実は案外動じていない。

 怪奇現象や幻覚・幻聴らしきものに脅かされても、交霊会のトリックは暴くし、重要な証拠は見逃していない。内面では、戦争のトラウマに苛まれても、自身の在り方に悩んでも、である。だからどうしたのだ? と。あたかも求めるのは「秩序と方法」そして「真実」、ただそれだけであると言わんばかりに。

 

 この辺りを踏まえると。今作は一見すると怪奇現象が起こるせいで、ホラーのコンテクストに沿っているように見えるものの、実は最初から最後まで探偵としてのポアロが、目の前の現実を前にして「秩序と方法」で対処できるか=自らのアイデンティティーを貫けるか(取り戻せる)どうかという話だったわけだ。

 

 もちろん、謎解きとその手がかり、真相を明かしたときの構図の変転も、十ニ分だった。

 ステップ1:いかにも仕掛けや協力者がいそうな降霊会

 ステップ2:勃発する怪奇現象とその過程で示される登場人物たちの不審点

 ステップ3:「友人」の推理作家と「元警官」のボディガードの共謀

 ステップ4:強まる幻覚と幻聴。止まない大雨。そこからの地下の隠し部屋。

 ステップ5:密室殺人。不可能犯罪によるポアロの敗北からの真相への手がかり。

 ステップ6:密室の状況から、犯行可能性のあった人間を絞り込むプロセス(防音扉。時計。内線電話。鍵の持ち主)。真犯人の特定とその動機の解明。

  

 1時間半と少しの映画でこれをよく詰め込んだものと感心した。特に、ポアロの幻覚・幻聴が蜂蜜に紛れ込まされた毒物を原因とする→真犯人は入手し、投与可能であった人物という流れは、手がかりのフェアさという観点もさりながら、毒による幻覚・幻聴がポアロの内面での葛藤であったという話に繋げるのが上手い。

 

どこで騙すか?

 作中ポアロは、探偵活動を休止していた理由を、2つの世界大戦や倫理が失われたことに求めている。

 戦争のトラウマは、作中の被害者「医師」と「看護師」にも共通している。ポアロのトラウマとミステリーで言うところの見立て殺人の2つのモチーフが表出する。

「医師」のトラウマは、明らかにアウシュヴィッツで、「看護師」のトラウマは野戦病院等での経験であることは容易に予想がつく。

 しかし最後まで観れば分かる通り、本作は「テーマは戦争のトラウマ(被害者とポアロの同化)と見立て殺人」というところで騙しに来ているわけだ。

 

 この騙しはここにとどまらない。

 まず、先に挙げた、ポアロの友人・ボディガードたちの霊媒師との共謀にもかかる。そして、本作が『ハロウィン・パーティ』を原作としつつも実はそれとは全く別の物語に翻案をしていること自体が、騙しである。

 

 劇場に行く前に、原作『ハロゥイン・パーティ』を読んだと冒頭に書いた。この映画は、原作と共通しているところのほうが少ない。

 原作の舞台はイングランドの地方村だが、本作はヴェネチアである。

 原作は、ハロウィン・パーティーでの事件が起こってからポアロに依頼が来るのに対して、本作はハロウィン・パーティからポアロが参加する。

 原作の事件は、パーティに発生するのであるが、本作の事件は、パーティのに起こる。

 原作はポアロも村に滞在しているが、本作は1日である。

 原作は長閑な地方の日常であるが、本作はヴェネチアが水没するかのような大雨という非日常である。言うまでもなく、原作はクローズドサークルではない。

 原作では、パーティの事件の真相を解くために過去の事件を調査するという展開なのに対し、本作は過去の事件が仄めかされてから現在の事件が引き起こされる。

 原作では、アップルボビングは発端の事件と関わっているように見えるが実はそうではない。それに対して、本作はポアロがアップルボビングをすることが事件の発端となっている。

 ……といった具合にである。

 登場人物の名前も一部共通していたり、似ている人はいるものの、実際の役回りは全く異なっている。

 例えば、レオポルドなど、名前こそ同じだが原作が「賢しいが金に目がくらんで自ら死を招く(それをポアロにボロクソに言われる)」人物であるのに対し、本作は実は最初から最後まで「その賢さをただただ愛する父親のために用いようとした」人物、と180度異なる描かれたかをしている。

 また原作の真犯人(マイケル・ガーフィールド)は、自身の芸術のための王国を建設するために年上で寡婦ロウィーナ・ドレイクの歓心を買い、彼女らを利用する形で金を得ようとした挙げ句、最終的には実の娘(ミランダ)すら騙して毒殺しようとする。

 これに対して、本作の真犯人(ロヴィーナ・ドレイク)は、娘のアリシアマキシム・ジェラートと婚約して自立しようとしていく最中、娘を自分の手に取り戻すために娘に神経毒を盛っている。

 どちらも自身のエゴのために娘を殺すという点は共通しているが、方向性が全く違う。原作は自身の王国を得るために娘を殺すというエゴだが、本作は娘を自身の所有物のままにするため毒を盛るというエゴである。

 

 この「改変」をどう思うかは人によるだろう。私は、翻案としては面白いと思った。

 というのも、原作は真犯人ふくめ少なくない登場人物が、中央ヨーロッパ(=紛争国)やイングランドの地方村から自身の理想の投影であるロンドン(=都会)・ギリシャ(=芸術)へ逃げ出そうとするという心情が描かれていた。

 逆に本作は、新天地へ羽ばたこうとする人間を真犯人が囲い込もうとしたことに事件の淵源があったわけだ。

 アリシアとの愛を貫くことができなかったまま降霊会に来てしまったマキシム。修道院から「いろいろあって」俗世に戻ったオルガ。ナチ支配下ポーランドからアメリカへ逃げようとしたホランド姉弟。息子を守るために命を絶ったドクター・フェリエ、その父への思いから既に真相に至っていたレオポルド。

 こうした大なり小なり自分の意思や他者への思いを抱いている他の人物と比べると、本作の真犯人ロヴィーナ・ドレイクだけが徹頭徹尾「自分の思い通りになる娘のままでいて欲しい」という異質な発想にいることが分かる。

 

残念だったところ

 これで合計三度記すことになるが、ジャンプスケア系はやめてほしかった。

 

 ナチス・ドイツホロコーストを前提としている描写、ほのめかし。これはクリスティの晩年とそれに伴う作風の変化、登場人物たちの動機や背景、本作のポアロの当初の消極性やトラウマ、探偵としての再起までを繋げるものとしては、むしろ使わない方がおかしいし、本作はこれを上手く用いていると言える。

 

 他方で、作中で仄めかされるナチスドイツとは対称的に、アメリカが希望・新天地として表象されていると思わしき点には、問題がある(あくまで難民のホランド姉弟の視点・語りであるという留保はつけるにしても)。

 というのも、たしかに戦後復興過程にあったヨーロッパから見れば、この時期のアメリカは「新天地」であったかもしれない。しかし、作中の時代である1947年には既に冷戦が始まりつつある。

 ヨーロッパは戦争の傷痕・トラウマを抱えているけれども、「探偵」ポアロのように再起するのだ……そんな話は多分1947年当時のアメリカと西ヨーロッパの一部には通用したとしても、今の時代はどこか空々しさも伴う。

 ましてや、この数年後に分断される東西ドイツ、東欧諸国、そして冷戦に巻き込まれるアジア・中東・アフリカを筆頭とした世界各国の大多数にとっては、噴飯ものかもしれない。この点についてエクスキューズすることまで、本作の仕事ではないのかもしれないが、それでも2020年代にはそういうことも含めて我々は思わざるを得ないのも確かである。

 

再起した「探偵」の為したこと

 とはいえ、空々しさや欺瞞が伴うにしても希望を語ることに意味はある。

 最後、みんなが館から出ていこうとする中、ポアロが呼び止めてからの真相究明はここ数年の謎解きシーンの中では一番良いかもしれない。容疑者を一人ひとり映して喋らせるところのカメラワークからして、「さぁさ皆様お待ちかね」と言わんばかりなのも小憎らしいし、謎解きのスピーディさがポアロの復活を象徴するかのごとくなのも、ここまで待った観客に対してご褒美だった。クライマックスとしての謎解きかくあるべし。

 

 ED、ポアロが館をゆっくり歩きながら残された人々と会話する下りも、雨が上がったのだと感じさせるもので実に好ましい。どの会話も優劣つけ難いのだが、やはり最後の謎解きとして「脅迫者」の正体を明かすところが、白眉かもしれない。

 本作のポアロは幻覚や怪奇現象に悩まされつつも、常に「秩序と方法」そして「真実」のために推理をしたわけで、そのために真犯人含めて容疑者をみんな追い込んでいた節があった。しかし、脅迫者=レオポルドにだけは膝を折り、目線を対等にして(本作では初)、彼の心を救うべく「真実」を明かすのだ。この最後の場面だけは、自分が父親を殺してしまったのではないかと悔やむレオポルドの心を救うべく、ポアロは自らの頭脳を用いた。そうして、自らの良心を救うなら行き場のないホランド姉弟のためにそのお金を使いなさい、と諭す。

 

 最後、アリアドニ・オリヴァとの会話でポアロは、怪奇現象を己の潜在意識の表れあるいは信念との葛藤であると述べる。ヴェネチアに降っていた雨は止み。レオポルドは、いつか父にまた会える希望を抱いて旅立った。この物語は、怪奇現象(ホラー)との対峙を経て、「探偵」としてのポアロが再起するまでの過程を描いたわけである。

*1:クリスティは、ポアロを書くのにうんざりしていたという話はよく知られている。なにせ、ピエール・バイヤール『アクロイドを殺したのはだれか』みちたいにポアロを精神異常者として理解する読み手もいるほど