苦雪のブログ

本やゲーム・映画についての感想を備忘録代わりに時折書きます。基本敬称略。

『ナイブズ・アウト(Knives Out)』:これ結局どういう作品なの?

 

 

 

 

『ナイブズ・アウト(Knives Out)』を観てきたので、感想を書く。一応、本とかゲームに関する話題を書く目的で始めたブログなのだが、実質的な初記事に続いて今回も映画であるのは、どうなのだろう……。まぁいいか。

 なお以下では、内容や結末に関する具体的なネタバレを自重していないため、ご注意を。ちなみに記事タイトルに副題を記していないのは、私があの副題をダサいと感じたから。

 

 

 

『ナイブズ・アウト(Knives Out)』総評

 さて、『ナイブズ・アウト』。観てる最中、腕時計を確認していたわけではないので、正確な時間は分からないが前半1時間くらいまでは、楽しめた。 

 何よりも館の描写が良い。開幕、こちらに走ってくる二頭の犬。家政婦が歩き回ると共に、映し出させれる館の中。怪しげな小道具。本の山。階段。ミステリーで一大を築いた作家の趣味が表れたであろう館の隅々に惹きつけられたし、ここは百点満点だと思う。

 冒頭の尋問シーンも良い。観客を飽きさせないよう、画面や話者を切り替えたり、尋問対象を切り替えたり工夫しているのが分かるし、短時間で館の内部に関わる一族の人々がどんな人間か、そして何を隠しているのかを分かりやすく伝えている。

 この二つの部分は、間違いなく評価点だ。 けど後半は、①後の展開や真相が見え透いてるし、②しかもその予想を全く裏切らないのに加えて、③最後の方のとあるシーンの演出が酷すぎる

 そのせいで、途中までは「期待していた程ではなかったけど、舞台・背景・小道具とか小ネタが悪くないし、まぁまぁかな」だったのが、最終盤になると「なんで批評家連中はこの作品を絶賛してんの?まで一気に好感度が下がってしまった。

 この際だから言ってしまおう。そもそもこの作品は、どのような面で評価されているのか、またはどのようなジャンルなのか。そこがよく分からなかったというのもある。ミステリーとして見ると、微妙だし、それ以外のジャンルとして見てもそれはそれで疑問符がつく。

 

ミステリーとしての『ナイブズ・アウト』:何もかも予想を裏切らない話

 

 例えば、『ナイブズ・アウト』をミステリーとして観た場合、厳しいことを言えば、破綻はしていないんだろうけど全体的に小粒で、予想を全く裏切らなくて驚きが少ないから、ふーんそうなんだレベルで終わる内容だと思う。

 作中のミスリードや伏線は全てあからさまで隠す気もない。観客の「きっとこれは◯◯なんだろうな、犯人はこの人だな」がほぼ100%そのまま真相なのだ。そのせいで、真相が明かされても大して驚きが起こらない。観客の予想もこみでの騙しとかそういうのは一切ないのだ。

 というのも、中盤に差し掛かる辺りで「マルタがハーランに対する投薬を誤り、死に追いやる」という”真相”が明かされた時点で、ああこれはまだ隠していることがある=これはミスリード、というのが分かってしまう。

 なぜなら、この時点で、

 (1)ブノワを呼び出したのは誰なのかという問題は残っている(ワトソンとしても、”犯人”としても、目撃したことが全て明らかにされているマルタはあり得ない)。

 (2)なぜか消えた解毒剤についても説明されていないし、冒頭の尋問の下りから警察は検視に異常性を認めていない(=モルヒネの過剰投与はない)ことも分かる。

 (3)後になってハーランがマルタを遺産の相続人に指定したという事実が明らかになることで、尋問シーンまでは問題になっていた「ハーランの死で利益を得る人間は誰か」という問題が消える。

 (4)それだけでなく、事件で利益を得るもの≒遺言書の内容が変わったことを知っている者は誰か(=ランサム)という問題が後景に退くという効果が出ている。

 要は、メタ視点で見れば制作者が何から目を逸らさせたいのか、これ以上ないほどあからさまなのだ。特に(2)に気づけば、マルタの容疑が早々に消える。

 この後、マルタが証拠を隠滅しようとするシーンが半ばギャグみたいな感じで描写されるため、正直この映画がどこに向かうかが分からなかった。倒叙もの風になるのか、それなら凡庸すぎてツマラナイなとも思ったが、結局予想した通りもう一段階仕掛けありパターンだった。

 というのも、まず遺産相続の辺りで展開されたハーランの親族たちの恐慌ぶりや、マルタに対する掌返し、それまでの温情ある態度(≒上から目線)が反転した憎々しげな態度が示された後、マルタを助けるのがランサムであるためだ。

 ここで観客には、それまで一族の鼻つまみものだったランサムが、実は祖父と通じるところがあったり、マルタを助けたりするなどいいところがあるやつだな、という『印象の反転』が与えられる。おまけに、協力するから遺産の一部をくれとマルタに言うことで、観客に対するエクスキューズもしている。 

 ただ、これでもあからさまなミスリードだなと私には感じられた。作劇上、悪いやつから良いやつに印象を変えているし、ランサムは所々で「自分は祖父と通じ合っている」とアピールしているし、マルタの行動をそれとなく誘導している。

 なぜなら観客はこれより少し前に、マルタがハーランからアリバイ工作の指示を受けるという操りの構図を見せられているし、「マルタがハーランを死に追いやったように見える”真相”」も提示されているし、窮地に陥ったマルタに手を差し伸べる奴が良いやつなわけないと直観的にも思ってしまう。 

 その他にもランサム真犯人を裏書きする要素はたくさんある。第一に、一族のうちランサム以外にはほぼ出番がなくなること。第二に、マルタが脅迫状をランサムにのみ見せた後、検視局が放火されたこと。第三に、遺言状が変更されたことを事前に知っていた可能性があるのは、ランサム以外にほぼあり得ないこと。第四に、ブノワを呼んだ者と、消えた解毒剤の問題。第五に、途中描写された館内の物音の回数の問題。第六に、ハーランの母親のセリフ(「また戻ってきたのかい、ランサム」)。

 ミステリー的な意味で実行可能性があり得て、なおかつ作劇的にも(メタ的にも)犯人足り得る人物は、ランサムしかいそうにない。マルタが犯人かもしれないという展開が起こってからは、ランサム以外のハーランの親族たちは急にフェードアウトしてしまうのも良くない。容疑者が自動的に減ってしまっているし、脚本がここまでの大人数を使いこなせず、持て余してしまっている。

 これで探偵役であるブノワの推理が良ければまだいいのだが、残念ながら彼の推理は、微妙だと思うし、あまり有能そうには見えなかった*1。別に映画の中にまで、ドイルやクイーン、クリスティーetc...レベルを求めはしないが、提示された真相は完全に予想通り、では推理のプロセスが緻密で興奮するかと言うと、そうでもない

  ミステリー好きは、めんどくさいと言われる。フェアがどうのこうの言いつつ、解けない謎・騙される快感を求める的な。そういう意味では、『ナイブズ・アウト』は、「ミステリーとしては簡単すぎて驚きがないだけの映画」と言えるかもしれない。

 まぁ強いて言えば、嘘をつくと吐くというマルタの設定には言及しておくべきかもしれない。これは最初、観客に対するミステリー的な説明と、演出上の効果を狙ったものとして好意的に見ていた。

 ただ解決において、これはランサムを自白させるためには使われたものの、ブノワの推理においては直接使われていないように見えた。そうすると、この設定は観客に対して、「マルタの主観では、マルタがハーランを殺した」ことを”真実”として説明する以外に機能していないのではないか、との疑いがある。

 後、マルタがランサムに対してゲロをぶちまけるシーン。これ自体はまぁいいのだけど、とにかく画面が汚い。ふざけんな。

 後もう一つ、解決部分に関しては言いたいことがあるのだが、それは最後の方にとっておこう。

 ここまで述べたように、最終的にミステリーとしては微妙な感触を抱いたのは確か。ただ、寿命が残り10分である(と信じる)只中、ハーランがマルタに授けたトリックはシンプルながらも効果的だったし、彼の作家としての才能に説得力を感じられて面白かった。館の仕掛けについても文句はない(比較的単純だとは思ったが)。全ての真相が明らかになった後、セリフの印象が変わるというのもいくつかあった。そこは評価できると思う。

 

金持ち一家の転落劇あるいは風刺?:従属するミステリー

 

 ハーランを筆頭にしたこの一族は、カリカチュアライズされた現代の金持ち一家という感もある。長女は、商才で成り上がったタイプでプライド高そう。その夫(リチャード)は、現代のよくいそうな移民嫌いの自己責任論者、いわゆる「右」?  マルタだけは特別扱い? そんな二人の子どもは、一族の嫌われ者のランサム。

 亡き長男の妻(ジェニ)は、インフルエンサー。人当たりは良さそうな、いわゆる「リベラル」? マルタにもそれなりに優しい。その娘のメグは、今どきの子どもで、実はマリファナ吸ってる。マルタの友達だけど、大人たちの圧力には逆らえないタイプ。

 次男(ウォルター)は、父親の作品を売り出すことを代償行為にしてそうな感じ。その妻は劇中、目立たない。二人の子どもは、SNS中毒の「ネオナチ」?

 そんな彼らがパーティで、「政治談義」をするシーンは、あからさまな風刺だなと思った(字幕だと、「ネトウヨ」だの「パヨク」だの使われてるから、本当にあからさまだ)。私はこれ自体は、「まぁ今どきの人ならこんな考えのヤツもいるだろうし、身近で政治的意見が合わない人同士が会話したらこんな感じだな」という程度にしか感じなかったので、こういう描写がなされていることをもってこの映画を高く評価する気にはならない。というか、このせいでこの映画は現代的なテーマを真面目に取り扱う気はないんだな、と思った。

 

 ただ面白いのが、マルタの出身国について誰も彼もが別々の国を挙げる(=マルタのことを本当に知ってはいない)こと。そして、各々形は違えどマルタに優しかった(=上から目線だった)人々が、マルタが遺産相続人になると態度を変えることだ。

 特に、ハーランが亡くなってもマルタを援助しようとしていたウォルターが、マルタの家にまでやってきて翻意を迫るところは、生々しさを感じるし、よく描けていると思う。マルタに一番好意的な大人だったジェニすら、マルタが遺産相続人になると、金を無心するような態度になるのも本当に、「あ、ありそう」と思った。

 痛烈なのが、最後の最後ランサムが動機を語るシーンで、マルタを見下しながらハーラン一族の誇りある伝統を的なことを言った際、即座にブノワが「あの家は80年代にパキスタン人から買ったものだ」と切り返すところ。ここのセリフは、制作陣が意図したものなのだろう(ここは皮肉が利いていて、面白かった)。

 そうすると、作品の随所にハーラン一族の人々が好き勝手出来ているのは、結局ハーランのおかげであるという描写があったことに気づく。

 最後の、屋敷のバルコニーから冒頭で登場した"My Home..."(!) と書かれたコーヒーカップを持ったマルタと、屋敷の入口からマルタを見上げるハーラン一族の人々のシーンから、これらの要素は制作側が意図したものなのは明らかだ。

 しかしそれはそうなのだけど、こ冒頭と最後での金持ち一家とマルタの立場の逆転劇は、良くできているのだが……という感じがしたことも否めない。

 まず途中の路線から一切外れないまま(まぁそこはこの際どうでもいいとしよう。別に観客を一々驚かせようとする必要はない)。でも、正直こういう展開ってよくあるし、取り立てて目新しいものではない。

 途中の風刺とかが効いていて評価されてるのかもしれない。でも初めからそれを主題にしたものではない限り、本来風刺というのはあくまでも物語上の一つのスパイスであって、それがあるからといって評価するのも何か違う気がする。そして私は、風刺映画ではなく、ミステリーを期待したのだから。ではミステリーとしてはどうかというと、それは先刻述べたとおり。

 

 おそらく創り手側も、この映画を高く評価する人の多くも、『ナイブズ・アウト』をミステリー要素がある現代風刺劇として見ているのだと思う。はっきり言って、そこが気に入らない。

 

 私が好きな『13階段』や『そして、警官は奔る』は、あくまでもミステリーを主軸に社会問題を取り込んだ作品なのに対し、『ナイブズ・アウト』においてはミステリー要素は主ではなく従の立場にある。たぶんこれが、引っかかった理由だろう。ならミステリー要素を取り入れた風刺劇として面白いかと言うと……。

 

不満点:そもそもなされるべきツッコミが作品内でされてない(2/9追記)

 いやもうはっきり言おう。この映画は、上から目線の善良さを振りかざす金持ち一家が、優位性を喪ったことで出てくる「本性」を描いた。人間として真摯に行動するマルタの逆転劇を描いた。ハーランというミステリー作家の個性も描いた……しかし「本題はそこからでは?」という思いが、私にはある。

 なるほど確かにハーラン一家の人々は、自分たちの優位性を失ったことでマルタに対して掌を返した。それは確かに、酷いことであるし、マルタの境遇と比較すると、非難されてもしかたない。

 だが、仮に我々が彼らの立場ならば? 彼らを単純に愚か者とか偽善者と責めて良いのか? 遺言状をあんな風に変更したならば、恐慌状態になるのは当たり前では?

 そもそも、本当にハーランがマルタのことを思い、そして家族に今の甘えた境遇ではなく、自立した生き方をすることを願っているのなら、あんな不意打ち的な方法をする必要はなかったのではないか。結果的に、マルタは殺人を犯したという自責の念で苦悩したし、それまでのハーラン一族の人々との関係性も壊した。挙句の果てに、ランサムは逮捕された。

 もちろん、ハーランは、パーティー中はウォルトに、死の前にはジェニに対して、後日話そうという発言をしている。彼は、事件がなければ彼なりに家族に向き合うつもりはあったはずだ。それはそうなのだとしても、遺言状と遺産の内容を家族に対して、不意打ち的な形にしたのはマズイ。

 ランサムとの会話のシーンと言い、ハーランには自分の意思を家族に話した上で、合意を得ようとする真摯な姿勢が欠けているにも拘らず、作中ではその点は指摘されていない(探偵役のブノワあたりが指摘してもよさげなのに)。

 

 それに物語の中の人物相関図にも不満がある。この映画は途中まで、ミステリー的な意味では、「マルタvsブノワ」から「マルタandランサムvsブノワ」、遺産相続の面では「マルタvsハーラン一家」となっていた。それが、最終的にランサムの犯行動機が明らかになったことで、ハーラン一家は誰でも動機面では犯人足り得ることが明らかになり、遺産相続という観点では、ランサムは「ハーラン一族の一員」に取り込まれてしまう。

 なので、結局物語全体の構図は、「マルタ(andブノワ)vsランサム(andハーラン一家)」となってしまう。

 これではハーラン一家の人々は、マルタに対立する存在でしかない。物語前半では、個性を持った人々だったハーラン一家は、物語後半では「マルタに掌を返しをする偽善者」以外の地位を与えられず、個性を奪われた。

 こう言うと、メグは違うと思われるかもしれない。それは一部正しい。だがメグはマルタの友人で比較的善良とは言え、大人たちに逆らえない受動的な存在として描かれている。問題は、「大人」の描かれ方なのだ。マルタに対立する「大人」としてハーラン一家を描く物語後半は、単純すぎて大いに不満がある。

 例えば、ウォルトの「説得」以外にも、時間が経つとともに誰かが冷静になって、自分たちの行動を顧みようとするとか・ハーランの真意に気づくとか、そういうシーンをほんの僅かでも入れておけば印象は変わったはずだ。

 現代的なテーマとか風刺とかを入れたかったし、やりたかったのかもしれない。でも、それをやるならばもっと真摯かつ丁寧に描写すべきだ。作中では、マルタとハーラン一家の関係をひっくり返し、両者の対立構造を生み出した。けど、ライアン・ジョンソン監督はひっくり返すことに夢中になり過ぎたのだろう。マルタとハーラン一家の対立構造の描き方はかなり単純すぎると思うし、現代的なテーマや風刺を単純な二項対立的図式で語ってよいのか、という疑問がある。

 

余談:マジでいいかげんにしろよライアン・ジョンソン

 

 私は、ライアン・ジョンソン監督の作品を、『スターウォーズEp8:最後のジェダイ』と本作『ナイブズ・アウト』しか見たことがない。

 そんな私だが、『ナイブズ・アウト』終盤、ランサムが自白させられた後の下りには文句がある。

 

 なんだあの、スローモーション ふざけてんのか? そしてなんだその後の、ナイフが実は作り物でしたのシーン、ふざけてんのか?

 

 これには文句しかない。まず、ランサムがナイフを取り出してマルタを刺そうとするシーン、スローモーションと複数カメラワークを繰り返すあの手の演出、ほんとうにセンスがない。

 そしてその後、実はナイフが作り物でしたシーン。あそこ、観客の中には失笑してた人もいたけど、自分は余りにも酷すぎて笑えなかった。最後の最後で、「お前らこうなる思ってたろ? 残~念~! 違いましたぁ! ほら喜ぶんだろ? 笑うんだろ?」的なドヤ顔が透けて見えるシーン、本当に最低。最後の最後で、ウケ狙いに走ったせいで、何もかも台無し。

 『最後のジェダイ』でも(以下、念の為伏せ字)、ルークが開幕ライトセーバー投げ捨てるシーンあったけど、あれと同じノリ。制作側が逆張りとウケ狙いに走ってる最低のシーン。

 ここの下り見て、自分はライアン・ジョンソン監督のこういうノリが本当に嫌いなことが分かった。『ナイブズ・アウト』を見る前、『最後のジェダイ』のこともあり、警戒していたが、今回やっぱりこういうことをする監督だと分かった。

 『最期のジェダイ』と『ナイブズ・アウト』の二作しか見ていないため、公平さを欠いているかもしれない。しかし、両作から受けるライアン・ジョンソン監督の印象、①観客の予想を裏切ることのみに注力する結果、すべてを逆張りかコメディへと堕す。②作品中における説得力というものを醸成させることなく、現代的な問題を描くこと・取り入れること「だけ」に注力する結果、「制作陣側の伝えたいメッセージ」が先行し、作品そのものの完成度を蔑ろにする監督であるとしか思えない。

 

 最後に一言。結局、この映画どういう風に観ればよかったの……? 

*1:ブノワと警察側の知っていることと、観客=マルタ側の知っていることが食い違っていることを斟酌しても、マルタを最初から信用していたことには疑問符がつく。てっきり、マルタを助手に指名した時に喋っていた理由は方便で、本音は彼女を疑っているからと考えたが、どうやらブノワは本気で最後の方まで彼女が怪しいと思っていなかったようだ。