苦雪のブログ

本やゲーム・映画についての感想を備忘録代わりに時折書きます。基本敬称略。

読書メモ:ジョージ・オーウェル(訳:小野寺健)『オーウェル評論集』(その2)

 

……むろん、小説家には、同時代の歴史をそのまま書かなければならぬ義務はない。だがその時代の大きな社会的事件にまったく目をつぶったままの小説家というのも、たいていは愚かものか正真正銘の白痴である。

 「鯨の腹の中で」『オーウェル評論集』149頁

 

 

 

 

 前回に引き続き(下記事参照)、『オーウェル評論集』 の内容をまとめる。

 

bitter-snowfall.hatenablog.com

 

 

「鯨の腹の中で ――ヘンリー・ミラーと現代の小説」(1940年)

 

 同論は、直接的にはヘンリー・ミラーの『北回帰線』(1935年)を取り上げるものだ。しかし、読んでいて目を引いたのはオーウェルの1920~30年代英米文学論とでも言うべき箇所である(164頁)。

 1920年代に活躍した「作家グループ」。「ジョイス、エリオット、パウンド、ロレンス、ウィンダム・ルイス、オルダス・ハックスリーリットン・ストレイチー」(172頁)。

 通常これらの作家陣が一つのグループにまとめられることはなく、当人たちも一緒にされることに反発することは疑いない。しかし、オーウェルは敢えて、これらを一つの「作家グループ」と見做した。それは、次のような理由のためだ。

 

 ……それでも、十年ほど前にはそうは思えなかったにせよ、今になってみれば、彼らのあいだには気質の点でかなり明瞭な同一性が見てとれるのである、それは要するに「悲観的な見方」ということになるが、この悲観主義の本質を明らかにしなければならない。

 同174頁。

 

 オーウェルによれば、この悲観主義の中身は、「進歩」という概念への反発であったり、キリスト教悲観論・人間に対する一種の無関心・西洋文明の退廃への嘆きであったり(エリオット)、暴露趣味の混じった18世紀的懐疑論であったり(ストレイチー)、現代に対する苛立ちから過去の理想化に向かうことであったり(ロレンス)、といったものだ(174-176頁)。

 しかし、オーウェルの指摘はこれにとどまらない。少し長いが、非常に重要と思われるので、全て引用しよう。

 

 だがこれらの作家すべてについて目につくのは、そもそも彼らの「目標」がきわめて漠然としていてとりとめがないことである。当時のさしせまった問題にはまったく無関心で、とりわけ狭義の政治は完全に無視している。その視線はローマに、ビザンチウムに、モンパルナスに、メキシコに、エトルリア人に、潜在意識に、太陽神経叢にといった、すべて現実に事が起こっている世界とは無縁の場所に向けられている。二〇年代をふりかえるときもっとも奇妙に思えるのは、英国の知識人がヨーロッパの重要な事件に一つも目を向けていないことである。たとえばロシア革命にしても、レーニンの死からウクライナの飢饉まで、ほぼ十年が、英国人の意識からはほとんど欠落しているのだ。この間のロシアとは、トルストイドストエフスキー、それにタクシーの運転手になった亡命貴族のことなのである。イタリーとは、画廊と廃墟と教会と美術館だけで、右翼黒シャツ党員のことは考えてもいない。ドイツは、映画とヌーディズムと精神分析である――ヒットラーは影も形もなく、その名など、一九三一年までほとんど誰も聞いていなかったのだ。「教養人」の世界では、芸術至上主義が事実上無意味の崇拝という極端なところまで行ってしまった。文学とはもっぱら単語の操作のことと考えられるようになり、一つの作品の価値を判断する基準をその主題に求めるのは許されない罪となったばかりか、主題を意識すること自体が、すでに誤った趣味と見なされた。

 同176-177頁。太字による強調は筆者の手による。以下、同じ。

 

 オーウェルによれば、当時の作家たちの「目標」は漠然としてとりとめがない上、「当時のさしせまった問題にはまったく無関心で、とりわけ狭義の政治は完全に無視している」。一方の目標とは、ローマとかビザンチウムとか現実とは無縁の場所である。その一方で、現実の問題とりわけ狭義の政治には目を向けられない。レーニンの死、イタリアの黒シャツ党、ドイツのヒットラーには目を向けられず、ただトルストイドストエフスキー、ロシアからの亡命貴族、イタリアの画廊や美術館、ドイツの映画やヌーディズムが持て囃される。

 これは必ずしもオーウェルの意図にそぐわないかもしれないが、私なりに敷衍してみよう。当時の作家たちは、例えばトルストイだとか、ロシア革命で亡命した貴族の貧窮(タクシー運転手になる=生活苦)とか、物珍しい流行しそうのヌーディズムだとかには目を向けていた。しかし、彼らはそれらを生み出した原因でもある政治には目を向けていない。真新しい芸術や物珍しい思想や流行の部分しか見ず、例えばトルストイドストエフスキーが直面していたロシアの状況も、ロシア貴族が亡命することになったロシア革命も見ない。それどころか、作家たちは現実の問題や社会から逃避し、自分の理想を過去に投影して、そこから現代や社会を批判するという態度を採っていた。これが、オーウェルの批判である。

 20年代の作家たちが組みしていた目標とは、「たいてい道徳、宗教、文化といった」ものであり、それは政治的な用語で言い換えると左翼ではなく、何らかの意味での保守的を意味する。例えば、ウィンダム・ルイスの「ボルシェヴィズム狩り」や、パウンドのイタリア型ファシズムへの傾倒である。あるいは、超然としているエリオットも銃を突きつけられてファシズムか民主主義的な社会主義のどちらかを選べと迫れれば、ファシズムを選ぶだろうし、平和主義に到達したハックスリーも結局は社会主義を拒否するだろう、というのがオーウェルの見立てだ(178頁)。

 要は、この時期においては「悲観論と反動的見解が精神的につながっている」(178頁)。ここでの反動的見解とは、反・社会主義を意味する。

 しかしながら、1930-35年にかけて、「文学の気候」というものが変わることになる。「教会に好意を抱いている教養ある亡命者はもはや典型的な文学者とは言えず、共産主義に好意を抱いている真面目一方のパブリック・スクールの生徒といった人間がそれにとって代わる」。20年代作家の基調音が「人生の悲劇的感覚」なのに対し、新しい作家たちの基調音は「真面目な目的」である(180頁)。

 このグループの指導的人物は、オーデン、スペンダー、デイ・ルイス、マクニースである。前の世代よりも、技巧や政治思想においても似通っているし、互いの作品批評を見ても好意的な点で、グループ化しやすい。注目すべきなのが、彼らんお大部分はパブリック・スクールを出て、大学に進み、学者や文化人の多い住宅地に住むという型に嵌っていることだ(182-183頁。他に挙げられた作家について182頁参照)。

 そして、30年代半ばから末期にかけてのオーデン・スペンダー一派は、20年代ジョイス・エリオット一派と同様「運動」である。この運動は、「共産主義と称するいささか正体のはっきりしない代物」を目指している(184頁)。

 この時期(1934年以降を指す)の文壇では、共産主義共産党というものが流行していた。それは、オーウェルが1935年から39年にかけての「ほぼ三年間は、英文学の主流は多少とも共産党の直接の支配下にあった」と言うほどである(185頁)。

 それはなぜか。簡単に言えば、1935年にヒットラーが政権を握ると、その攻撃目標である英国・フランス・ソヴィエトが「一種の不安定な親善関係を結ばざるをえなくな」り、英国・フランスの共産主義者愛国者共産主義者となる、つまりこれまで攻撃してきたものを擁護する羽目になったからだ(187頁)。共産主義者は「世界革命」から「民主主義の擁護」・「ヒットラー打倒」をスローガンにするようになった。

「英国の若い作家たちが共産主義に惹かれたのは、それが『反ファシズム』を標榜していた期間だった」(188頁)。だがなぜ作家たちは、「精神的誠実を不可能にするような形態」のロシアの共産主義に惹かれたのか。その原因は、不況とかヒットラーの登場以前に既に存在してた。つまり、中産階級の失業である(188頁)。

 この場合の「失業」とは、単に職がないことを意味しない。

 

 問題は、一九三〇年ごろには、おそらく科学研究とか芸術あるいは左翼の政治活動以外、ものを考える人間にとってその価値を信じられる活動が何もなかったという点にあった。西欧文明の正体を暴露する動きはすでに頂点にたっし、「幻滅」が広く世の中に行きわたっていた。いまさら誰が、軍人、牧師、株式仲買人、インドの役人などといった職について、いかにも中産階級らしい人生など平然と送ることができただろう? 祖父の代の人生の規範とった価値観でまじめに信じられるものなど、どれだけあったろうか? 愛国心、宗教、帝国、家族、結婚の神聖、母校の誇り、生まれ、育ち、名誉、規律――ふつうの教育をうけた人間なら、三分もあれば、こういうものの価値観をひっくりかえすことができた。だが、結局、愛国心とか宗教といった根本的なものを排除しておいて、何かを達成することができるのだろうか? やはり、何か信じられるもの・・・・・・・・・が必要だということは、否定できなかったのである。

 同188-189頁。傍点原文ママ。以下、同じ。

 

  

 引用文中の「西洋文明の正体を暴露する~」は何を念頭に置いているのだろうか。第一次世界大戦後、ヨーロッパ文明への幻滅が広まっていたという話は聞いたことがあるが(オスヴァルト・シュペングラー『西洋の没落』は1918年出版)、そういう類のものなのだろうか。

 ただそれより重要なのは、、それでまで縋っていたものの価値が色あせてしまっても、結局人は何か別の対象に縋るものを求めてしまうという指摘だろう。この時期より前、多くの若い知識人たちが、カトリック教会に逃れたことがある。

 

 おもしろいのは、この人びとがまず例外なく英国国教会とかギリシャ正教会プロテスタント諸派ではなく、ローマ・カトリック教会に走ったという事実である。要するにこの人々は世界的な組織をもっている教会、厳格な規律をもち、背後に権力と威信をもつ教会へ走ったのだ。……だが三〇年代の若い作家たちがどっと共産党に入党したり、期待を寄せたりした理由は、もうこれだけで明白であろう。要するに共産党は、信じられる価値があるものだったのである。それには教会もあれば、軍隊も、正統的信条も、規律もあった。祖国もあったし――すくなくとも一九三五年ごろからは――指導者フューラーもいた。知性が追放してしまったかに見えていたあらゆる忠誠心や迷信が、わずかに衣装を替えただけで一挙に復活できることになったのだ。愛国心、宗教、帝国、軍隊の栄光――これらすべてがソヴィエトという一語に集約された。父、国王、指導者、英雄、救世主――これはスターリンという一語で足りた。神―スターリン。悪魔―ヒットラー。天国―モスコー。地獄―ベルリン。これで空白は完全に埋まった。こういうわけで、英国知識人の「共産主義」にも、それなりに納得はいくのだ。要するにそれは根無し草になった人間の愛国心なのである。

 同189-190頁。

 

 もはや説明は要るまい。それでも敢えて付け加えるとすれば、結局、知識人とか教養人が縋るものの衣装が変わったに過ぎないということだろうか。愛国心あるいは忠誠を誓う対象が、20年代は作家が理想を仮託した過去の何かや、カトリック教会だったのが、今や共産主義に変わった。世界的な組織をもち、厳格な規律や正統的信条を与えるという点では、カトリック教会も共産主義も変わらない。

 このような認識を持つオーウェルは、やはり『動物農場』や『1984』を書く人物であった。しかし、オーウェルが『動物農場』、『1984』の人である所以は、そこにとどまらない。

 

 だが、この数年間における英国知識人のロシア崇拝に、あきらかに貢献している要因が一つある。それは英国自体での生活が平穏無事でだったということだ。いくらさまざまの不正があるにせよ、英国は依然として人身保護法の国であり、国民の圧倒的多数は暴力や不法行為など経験したことがないのである。こういう環境で育ったなら、独裁体制の実態など、容易に想像できるものではない。三〇年代の支配的作家たちは、ほとんどが因襲の束縛も知らない、おっとりした中産階級の出であり、年齢的にも若くて、第一次大戦の強烈な記憶もなかった。こういう人々にとっては、粛清とか秘密警察、即決処刑、裁判ぬきの投獄といったものも、あまりにも縁遠く、そのこわさはピンとこない。全体主義を抵抗なくうのみにできるのも、まさに、自由主義体制以外は経験していないからなのである。

 同190-191頁。

 

 先にオーウェルは、三〇年代の作家の背景は同質的であると述べていた。つまり、パブリック・スクールから大学を出て、学者・知識人になるというルートである。引用した通り、「おっとりした中産階級」の人々で、第一次大戦の時に国内外で何が生じていたかも知らない。全体主義が何を意味するかも知らない。

 例えば、オーウェルは後々次のように言う。

 

 一九三七年までには、知識人はすでに全員が精神的な戦争にまきこまれていた。左翼思想は偏狭なものと化して、「反ファシズム」つまり消極的な否定の思想になりさがっていた。ドイツと、ドイツに好意的と目される政治家を標的とする憎悪の文字が、印刷所から奔流のようにあふれでた。

 194頁。

 

 第一次大戦時、敵対する国出身の人(敵性人種)への迫害が生じた。逆に、例えばアメリカではそれまで差別を受けていた移民・異人種の人々が徴兵に応じることで、やがて「アメリカ国民化」したり、あるいはイギリスでは帝国植民地の国々が参戦し血を流したことで、帝国内での「臣民として権利」の向上をもたらすどころか、各植民地のナショナリズムを刺激し独立運動を活発化させることにもなった。このことは裏を返せば、徴兵に応じるないしは戦争に協力しないこと=愛国心がないと見做されがちであったということを、如実に物語る。

 言葉は悪いが、世間知らずのインテリは、実態も知らないくせに共産主義を賛美している、ということか。実際、この後には「1935年から39年にかけて英国知識人がさかんに戦争を口にした大きな原因は、自分だけは無関係という意識にあった」(192頁)とも述べている。

 しかし、オーウェルの意図を、共産主義の抑圧の構造を知らないで、それを賛美する人々への批判だけと読み込むのは間違いだろう。

 

「絞首刑」(1931年)、「象を撃つ」(1936年)

 オーウェルは1922年にインド警察の訓練所を出てから27年まで、ビルマで警官として勤務した。その時のことを綴った「絞首刑」(1931年)と「象を撃つ」(1936年)も『評論集』には収録されている。

 後者の「象を撃つ」は、オーウェルの複雑な心境が率直に綴られる。一方では、植民地のいち官吏でありながら、それを嫌いビルマ人に同情し帝国主義を憎んでいる。しかし他方で、現地の人々から真っ先に蔑まれ仕事を妨害されるのが警官であった。「ただ、自分が仕えている英国帝国への憎悪と、自分の職務を妨害しようとする悪質な畜生どもへの怒りのあいだで板挟みになった」(36頁)。

「象を撃つ」の中では、人を襲って殺した象を射殺すべくライフルを持って進む若きオーウェルの背後から現地人の群衆が列をなしていくシーンがある。象を見た途端、労役用の象はコストが高いとか、おとなしく草を食べている様子がさして危険に見えないとかで、撃つべきではないとオーウェルは思った。

 しかし、そこで振り返ったオーウェルは、群衆が少なくとも2千人はいて、しかもその顔が「どれもこれも象が射殺されるものと信じて、この観物に興奮している幸せそうな顔」をしているのを見た。オーウェルを見るその目は、「まるで手品を始めようとする奇術師でも見ているようだった」。そのとき、オーウェルは「結局象を撃たないわけにはいかないな」と思った(41頁)。

 銃を持ったオーウェルは、「群衆がそれを期待している以上、撃たないわけにはいかないのだ」(41頁)。

 確かに、これは「象を撃つ」の中でオーウェル自身が述べているように、「支配者」となった者が「原住民」の感心・期待に常に答えつ「愚かなあやつり人形」となること、いわば「仮面をかぶっているうちに、顔のほうがその仮面に合ってくる」(42頁)ことを意味している。

 この小論は、象を撃つときの描写、象が死ぬまでの描写、その後の顛末も含めて、その場に居合わせたかの如くで、その筆致は、これについて何かを述べることすら嫌になるような躊躇われるような気分に読み手を陥らせる。しかし、事の意味はそれだけではないだろう、と感じる。

 背後の群衆が期待していること(象の射殺)を前に、一人の警官であるオーウェルは逆らえない。集団の意思を前にして、一人の人間がそれに飲み込まれ自ら従う様。これが「象を撃つ」のもう一つの意味ではないのか。

 この点を踏まえると、事の問題は共産主義のみにではなく、集団としての人間ひいては社会があたかも一つの意思にまとまっていき、その中に取り込まれた人間が抑圧される・同化されることにある。すなわち、全体主義である。

 ところで、この「象を撃つ」を通して描かれるのは、大英帝国の植民地支配の中で「支配する側の最前線にいた者」としての等身大の姿でもある。そして、その姿は思いの外、弱い。というより、現地の支配層(それも最前線)は、現地の住民に恐怖を抱いていたのではないか、という節がある。

 少し話はずれるが、偶々最近刊行されたマハトマ・ガンディーに関する二冊の本を読む機会があった*1

 支配層の最前線の立場にいた若き日のオーウェル大英帝国内部のエリートとして”同胞”の地位向上を希求していた若き日のガンディー。このようなスケッチは、微細なニュアンスを削ぎ取る恐れなしとしないが、前者の姿からは「支配する側が支配される側に恐怖を抱いていた様」が、後者の姿(あくまでも若き日のガンディーである)からは「支配する側の論理を逆手に取って戦おうとする支配される側の様」が見える。

 しかし、私がより苦い思いを抱くのは、当事者としての彼ら固有の思いや動機というものが、「支配する側/される側」とか「支配ー被支配の転倒」とかそういった場面に至ると立ち消え、巨大なシステムの中に生きるアトム化した存在に矮小化されてしまうことかもしれない。”オーウェル”とか”ガンディー”という名前・属性を剥ぎ取って観てみれば、そこにいるのは「内心では帝国主義を憎んでいてもそれに加担しているどころか、現地人に”支配”され恐怖する一個人」、「形や動機はどうあれ、支配する側の論理に順応して、植民地の地位向上を図ろうとする当時の標準的な植民地出身エリート層」である。

 もちろんこんな表現すら、適切とは言い得まい。グローバル・ヒストリーが言われて久しい。帝国主義と植民地の下で、支配層ー被支配層の関係がどのようなものであったのか、単純に語ることなどできないだろう。支配する側の”支配”の内実、意識・感情、支配される側の主体性(硬軟両方の順応・反抗etc)と言っても、簡単ではない(本職の研究者すら頭を抱えるのだろうから)。

 少なくとも、オーウェルの「象を撃つ」からは支配する側が、支配される側に対して抱いていた実際の感情の一端というものを表していたことは確かである。恐れ・不安、それに近いものが支配する側の最前線には醸成されていたのだろう。

 

 閑話休題。「絞首刑」(1931年)で描かれたのは、絞首刑に科された囚人を誰も人間として見ていないという凄惨な光景である。これを、特定の集団や社会から爪弾きにされたor仲間ではないとされた者は、そこに属する人々からは人間と見られないことの暗喩と見るのは、苦しい解釈だろうか?  「象を撃つ」や「絞首刑」執筆時のオーウェルとその後の彼を単線で繋ぐのは、軽挙かもしれない。しかし、後年の彼から過去の彼を見ると、彼自身の中で通底するものがあるように見える。

 『動物農場』や『1984』の作者オーウェル。そのオーウェルは、「鯨の腹の中で」において、自身を「殺害された人たちの死体をたくさん見ている」人間でもあった(192頁)、と語る。そのため、「軽々しく殺害を口にすることはしない」(同)。恐怖、憎悪、泣き叫ぶ肉親、検死、血、死臭……。「象を撃つ」や「絞首刑」のような出来事故だろう。

「左翼思想には、火が熱いことさえ知らない人間の火遊びのようなものがあまりにも多い」(192頁)とオーウェルが言う時、彼の念頭にある「火遊び」が左翼思想にとどまらないように思えるのは私だけではないはずだ。人を、そして人の死を軽々しく扱うことに憤るオーウェル。「やむをえぬ殺害」。「こんな言葉が書けるのは、殺害がせいぜい言葉・・でしかない人間だけである」(192頁)。

 似たような言葉は、今でも耳にする。「必要な犠牲だった」「やむを得なかった」「仕方なかった」――こんな風に。言っている本人が手を下して言うどころか、死ななくてもいいどころか、死んでよかったはずなどないのに拘らず、人が亡くなったとき、こんな言葉が今でも使われる。オーウェルが直接念頭に置いていたのは、共産圏で党(国家)が人々を死に追いやることに対して、英国の人々がそれを「やむを得ない犠牲」と宣うことだったのだろう。

 だが、これを書いていたオーウェルの前では、ほんの20年と少し前どころか今まさに二度目の世界大戦が起こっていた。国の指導者が、国民の死に「仕方のない」、「尊い犠牲」、「祖国の礎」だとか言っていただろうし、当の国民もそう言っていたし、外国にいるシンパもそう言っていた。別に世界大戦の時代でなくても、現代でもよく聞くフレーズである。テロとか邦人誘拐とか自然災害の時どころか、日常時の国家の不作為ですら「仕方のない」で済ませる光景も珍しくはない。それを見たことがないと思うのは、忘れているか、偽っているか、あるいは鈍感なのか。いずれにせよ、その構図に加担している。

「仕方のない犠牲」。なんと空虚な言葉なのだろう。死ぬ理由のない人間が助けられず、死に追いやられたのに、隣の人がこう言う――「やむを得ない犠牲だったんだよ」。吐くまではいかなくても、怖気が走ると思う。第三者が文章でそう書いているのを見たら、どう思うだろうか。想像力がない。自分とは別の世界のことと思っている。他人事と思っている。人の死をダシにして酔っている。

 色々と形容できそうであるが、オーウェルにとってそれは死が言葉だけでしかないことであった。現実の生身の人間の死ではなく、単なる言葉でしかない死。オーウェルはそう形容したようだ。

 オーウェルは言葉で物事を捉えるのが巧い。死がせいぜい言葉でしかない、なんて表現は少なくとも自分はそうそう出てこない。本人の感覚もあるのだろうが、それだけ言葉というものに鋭敏で真摯であったからなのだろう。

 ここまで引用した文章を読んで、「オーウェルは反共」という言葉で括って論じたつもりになってる人がいたとする。私は言いたい。あなたは読解力がない、と。もっとも、そんな人がいないことを願うが。

 

 だいたいにおいて、三〇年代の文学史を見ると、作家は政治にかかわらないほうがいいと考えるのが正しいように思えてくる。ある政党の規律を一部でも認めた作家は、遅かれ早かれ、その路線に従うか沈黙するかという二者択一をせまられる結果になるからだ。……われわれの考える文学とは、個人の所産であって、精神の誠実さと検閲制度が最低限であることがぜったいに必要なのだ。そして散文には、これが詩以上にあてはまるのである。……正統思想をかつぐ雰囲気は、散文にとってはつねに致命的であり、とくに、文学形式のなかでももっとも無原則的な小説にとっては完全な命とりになる。ローマ・カトリック教徒のなかに、すぐれた小説家が幾人いるだろうか? 一握りくらいはいても、これはたいていりっぱなカトリック信者ではなかった。小説はプロテスタント的な形式の芸術と言ってもいい。つまり自由な知性、自律的な個人から生まれるものなのである。過去百五十年のあいだでは、一九三〇年代の十年間くらい、想像力にもとづく散文の成果が乏しかった時期はない。……共産主義者とそれに近い人々が、文芸雑誌にたいして不当に大きな影響力を持っていたのだった。レッテルとスローガンと逃げ口上の時代だったのだ。最悪のばあいには嘘でかためた小さな檻に閉じこもって糞づまりをがまんすることになり、最良のばあいでも、誰もが心の中で一種の自己検閲(「これを言うべきか? ファシズムの味方をすることにならないか?」)をおこなっていたのだった。こんな雰囲気のなかで、良い小説が書けるはずはない。正統思想の有無に目くじらを立てている人間や、自分の非正統性に良心をビクつかせている人間に、良い小説は書けないのだ。良い小説を書くのは怯えていない・・・・・・人間なのである。

 196-197頁。

 

 まさしくジョージ・オーウェルの面目躍如と言うに相応しい宣言である。

 この後、話はふたたびヘンリー・ミラーに戻ることとなる(197頁)。ここの話は、私にはうまく消化できないところもある上、小論の内容がミラー作品などの中身に深く関わるため、詳しくは述べない。

 ただ、前回(その1)で出てきたチャールズ・ディケンズとの対比は興味深い。ディケンズに対しては、「つねに社会構造の変革よりも精神の変革を促し」、特定の政治的信条もないし、ディケンズは「つねに道徳の次元」にある(77頁-78頁)。しかし、ディケンズ作品の登場人物は常に完成していて、成長することがないため登場人物たちには「精神生活がない」(137頁)。しかし、ディケンズは常に権威に反抗し、嘲笑するタイプの人間だった(139頁)。彼の道徳はキリスト教的道徳であったが、教会に忠誠を誓う類の人間ではなかった。そんなディケンズに対して、「鯨の腹の中で」に描かれた作家たちは、対象が教会・共産主義という違いはあれど、権威に忠誠を誓っていた。

 このように「チャールズ・ディケンズ」と「鯨の腹の中で」で析出された作家像というものが、対照的な姿を見せていることは注目すべきである。他には、両論で描かれた作家たちの、出自や社会的背景と彼らの政治的態度の相関関係のあるなし、だろうか。

 オーウェルの中では、ディケンズ1920年代~30年代作家たちは対比的に捉えられているように見える。が、オーウェルの中での評価がディケンズ>1920~30年代作家たちとするのは行き過ぎにも見える。ただ、この点は詳しくないので、この辺りについて詳しく扱った文献があれば、知りたいものだ。

 

 他に、いくつか興味深く感じた点を引用しよう。

 どんな時代であろうと、でたらめあるいはバカバカしいとしか思われないような世界観を持った「すぐれた」作家が存在するという。オーウェルはその一例として、エドガー・アラン・ポーを挙げる。

 

  ポーの世界観はよく言っても熱狂的なロマン主義、悪く言えば文字どおり医学的な意味での狂気とあまり変わらない。それならば狂人が書いたと言ってもさしつかえなさそうな『黒猫』『告げ口心臓』『アッシャー家の崩壊』のような短編に、でたらめくさいところがないのはなぜだろうか。それはこうした短編が一幅の日本画のように、一定の枠内では真実であり、その短編固有の世界の原則を守っているからである。だが、こういう世界を書いて成功するためには、その世界を信じていなければならないようだ。……その偏執的論理が、その物語固有の背景のなかでは充分な説得力をもつのだ。たとえば酔っぱらいが黒猫をつかまえて小型ナイフで目をくりぬくところにしても、男がなぜ・・そんなことをしたかが正確にわかるばかりか、自分も同じことをしたかもしれないという気持にさえなってしまう。こうなると、作家にとって大事なのは「真理」を把握していることよりも感情が誠実であることではないかと思えてくる。

 同204頁。

 

  次のように言い換えると、オーウェルの説明を過度に一般化する恐れがないわけではないが、敢えて。上記のところは、作家が作品内での世界観あるいは論理というものを一貫して構築できているか(または作家がそれを信じきれているか?)が「でたらめ」か否かを分けるという趣旨だ。これは、読者が作品に接したときに説得力を持つことができたか、納得できるかということでもあるのかもしれない。

 

 次のような記述もある。

 一九一四ー一八年の戦争についての個人的回想を書いた本のうちで、今になっても読むに耐えるものは、ほとんどが消極的な、受け身の立場からのものである。どれもみな、真空の中の悪夢にも似たまったく無意味なことの記録なのだ。これはかならずしも戦争の真実ではない。だが、個人としての戦争にたいする反応としては真実だったのである。……大戦のさなかに書かれた本のうちで、最良のものは、ほとんどが戦争にはまったく背を向けて、そんなことは知らないといった姿勢に徹しようとした作家たちのものであった。

 同206頁。

 

 実を言えば、一九一七年当時、物を考える力があり、感受性のある人間は、せいぜい人間性を失わずにいるだけで精一杯だったのだ。そしてそのためには、何の力もないという格好、それどころか軽薄な格好をするのが一番だったといえるかもしれないのである。もしわたしがこの大戦に兵士として参加していたなら、……ただ超然として戦前の情緒を歌いつづけているエリオットこそ、人類の文化遺産の守護者だと感じたにちがいないのだ。頭のてっぺんが薄くなった中年男の迷いをうたった詩を読むというのは、ああいう時期にとってはどれほど多いな救いだっただろう! 銃剣の訓練とは大ちがいではないか! 爆弾と食料と買うための行列と志願兵募集のポスターのあとで聞いた、人間の声! 何という、これは救いだろうか!

 同208頁。

 

 非常事態だからこそ、平時のとりとめのないことをうたった詩が救いになる。2020年5月の今、やけに身近に感じられる文章だ。

 

 オーウェルが「鯨の腹の中で」を書いている最中、第二次大戦が勃発した。これを受けてオーウェルは、「一般に、社会主義リベラリズムの雰囲気を、維持するばかりか拡大してくれるのではないかという期待があった」が、「これがとんでもない見当ちがいであったこと」が理解されようとしていると述べ(209頁)、次のように言う。

 

 われわれはまず確実に全体主義独裁制へと移行しつつある――それは、思想の自由が、初めは大罪であり、やがては無意味な抽象概念と化してしまう時代である。自律的な個人は抹殺されてしまう運命にある。だがこれは、現在のような形式の文学が、すくなくとも一時的には死滅するということだ。

 同209頁。

 

 ……だが、今後創造力のある作家が第一に心すべきことは、作家の世界は終わったという事実だということになろう。別に、作家は新しい社会の建設に貢献できないというのではない。ただ「作家として」その歴史に参加する余地はないということである。なぜならば、「作家として」の彼は自由主義者であるわけだが、その自由主義が滅びつつあるからだ。……進歩も反動もともにペテンであることが、すでにわかってしまったのだ。どうやら残された道は静寂主義だけらしい――恐怖に服従することによって現実から恐怖をなくす道である。鯨の腹の中に入ることだ――むしろ鯨の腹の中にいるのを認めよ、と言うほうがいいかもしれない……。世界の流れに身をまかせて、それに抵抗したり、それを左右できるような格好はしないことだ。ただそれを受け入れ、それに耐え、記録するのだ。それこそが、今、おそらく鋭敏な小説家がとることになる道ではないかと思われる。

 同210-211頁。

 

 そのままのように受け取るべきなのかもしれないが、私の中ではこれは一種の反語ではないか?という一抹の思いが残る。まず鯨の腹の中にいるのを認め、ただ記録するという手段。受け入れ、耐え、記録した先には、解放の時が来るのだろうか?(あたかも『1984』の「付録・ニュースピークの諸原理」の存在が、オセアニアの消滅を含意しているかのごとく)。それは措くとしても、ここでは上記の静寂主義が肯定されているが、それ以外の道をオーウェルは決して排除していないようにも思えてくる。しかし、ここはよく分からない。

 

 ともあれ、今回はここまで*2 続きは、(その3)で。

 

 

*1:竹中千春『ガンディー 平和を紡ぐ人』(岩波書店、2018年)、杉本良男『ガンディー:秘教思想が生んだ聖人』(平凡社、2018年)))。

 両書が描く共通点としては、「植民地出身・英国で高等教育を受けたエリートという属性を持つマハトマ・ガンディーは、若き日は大英帝国内部の法制度に則って(=大英帝国の臣民として)植民地の人々の地位向上を目指していたものの挫折し、老いてからインド独立運動に舵を切っていく」というストーリーだろう((そして、一般的なイメージとは異なり、若き日のガンディーが大英帝国の植民地であるという点では共通であるにも拘わらず、アフリカ系の人々に対しては相当冷淡であったことも余すことなく描かれている。

*2:なお、Wikipediaのミラー「北回帰線」を見ると(北回帰線 (小説) - Wikipedia 2020年5月10日閲覧)、「ジョージ・オーウェルは、『1930年代中頃の中で最も重要な本』としている。」とあるが、出典はない。この「鯨の腹の中で」にそれらしき記述がないか探したが、(自分が見落とした可能性は排除できないが)、終ぞ発見できなかった。