わたしはもっぱら彼の「本質的な思想」ばかりを論じて、文学的資質はほとんど無視してきた。だが作家というもの、とりわけ小説家は、当人が認めようと認めまいと、ある「本質的な思想」を持っているもので、その影響は作品の内部まで及んでいるのである。
強烈な個性のある作品では、紙背のどこかに、ある顔が見える気がするものである。それはかならずしも現実の作者の顔とはかぎらない。……見えるのは、その作家が
当然そういう顔をしているはず の顔である。同144頁。傍点原文ママ、以下同じ。
岩波文庫の『オーウェル評論集』((ジョージ・オーウェル、小野寺健(訳)『オーウェル評論集』(岩波書店, 1982年)))を読んだので、自分用のメモも兼ねてまとめたいと思う。
『オーウェル評論集』(以下、『評論集』)を読んで思ったのは、オーウェルの文章は上手いということだ。読んでて突っかかることがなく、スラスラ読めるリズムの良さ。難しすぎず平易すぎずな語彙。主張が明確かつ流れるように読める良い評論文だと思う。
『評論集』は巻頭に「なぜ書くか」(1946年)を配置し、オーウェルの世界観と行動・思考の原則というものを読者に明らかにさせてから、個々の評論へという構成になっている。「なぜ書くか」で自ら明かしたオーウェルの思考法とでもいうべきものは、個々の評論を読むと、その時々において一貫して発揮されていたことが分かる。
ただこの文章はいわば備忘録。「なぜ書くか」はいわば総論にあたるから、便宜上、先に各論に相当する個々の評論について書いていき(すべての評論について詳細にまとめることはしない。あくまで自分にとって重要そうな所を中心にする)、「なぜ書くか」については最後に記す方が良いと考え、そのような構成にした。。
「チャールズ・ディケンズ」(1940年)
ところで、予め述べておけば、自分は文学や評論といった分野に余り素養がなく、他に比較対象となり得るような人物を知っているとは言えない。そんな自分の評価ではあるが、オーウェルは人物評が上手く、とりわけ作家が意識的にせよ無意識的にせよ作品に込めた意図・目的というものを剔抉するのに秀でている、と感じた。
例えば、次の文章。
「社会に対するその攻撃ぶりを見ると、ディケンズはつねに社会構造の変革よりも精神の変革を促しているように思われる。彼の改革案を明確に指摘すること、ましてなんらかの政治的信条を指摘することは、とうてい不可能である。彼の立場はつねに道徳の次元のものであって、……『心の変革』なしに制度を変えても無駄だ――これこそ彼がたえず言っていることの本質なのである」
チャールズ・ディケンズの作品分析から、ディケンズの立場が常に道徳の次元にあり、社会を変革しようとするものではないとの指摘。これだけでも凄いが、その立場を「『心の変革』なしに制度を変えても無駄だ」という言葉で表現し尽くしているのが白眉だ。
次のような面白い文章もある。
……結局二つの見方は両立するのだ。制度を変えずにどうして人間性を変えることができる? というのが一つ。 もう一つは、人間性を変えずに制度を変えてみて何になる? ということである。どちらをとるかは人によって違うのであり、おそらくこの二つは時代時代で交代をくりかえすものなのだ。道徳主義者と革命家とがたえず相手の立場をくずそうとしあっているのである。マルクスは道徳主義者が立っている足元で百トンのダイナマイトを爆発させた。われわれはいまだにその大音響のこだまの中にいる。だがすでにどこかで、工兵たちが、マルクスを月まで吹きとばすような新たなダイナマイトを敷設しているのだ。するとまたマルクスか、似たような人物がさらに大きなダイナマイトを持って舞いもどってくる。というわけでこの繰返しは予測不能な結末までつづくのである。権力の濫用をどうすれば防げるかという肝心の中心問題は、永久に解決しない。ディケンズは私有財産が障害だということは見抜けなかったものの、この点は見抜いていた。「人間の行いがよくなれば世界もよくなるだろう」という思想は、案外陳腐ではないのだ。
同79頁。太字による強調は筆者の手による。以下、同じ。
先に制度を変えるか、それとも人間性を変えるか(しかしオーウェルによれば、肝心なのは権力の濫用防止である)。この二つの見方と併せて、オーウェルが生きていた当時の状況を、マルクスがダイナマイトをぶっ放したことで「われわれはいまだにその大音響のこだまの中にいる」と例える。この言い回しには痺れる。
「チャールズ・ディケンズ」は『評論集』の中で一番分量が多い。それだけディケンズの作品を詳細に分析しているということでもある。本来は、それも適宜言及しながら、オーウェルのディケンズ評に触れるべきではあるが、それだとメモにならなくなるので、そこは割愛して。
ディケンズの一つの大きな特徴、それもとくにその時代を考えるとき目立つ特徴は、低俗なナショナリズムがまったく見られないということである。
同86頁。
ディケンズに低俗なナショナリズムが見られないのは、一面ではまぎれもない精神の寛大さの証であり、反面では消極的で、いささか非協力的な政治姿勢のたまものなのである。彼はきわめて英国人らしい英国人だが、ほとんどそれを自覚していない――英国人だと思っても嬉しくもなんともなかったことはまちがいないのだ。
同90頁。
作品分析から作者の思考と態度を抉り出す。オーウェルはこんな典型的な英国人を、帝国主義的な感情もなく、特にこれといった外交政策観があるわけでもなく、好戦的な伝統にも冷淡と敷衍した上で、「気質としては、これは『赤い制服の軍人ども』を軽蔑して、戦争はよくないと考えている非国教徒の小店主に酷似しえている」(同90頁)と指摘する。そして、ここで、しっかりとディケンズの作品にほとんど戦争や戦闘というものが描かれていないことが、挙げられている。
次に、ディケンズの出身階級の話がある。ディケンズは大衆作家、虐げられた大衆の代表とされるが、ディケンズ自身はイングランド南部の人間な上、ロンドンっ子だから、本当に虐げられている膨大な大衆――産業労働者や農業労働者とは接していないというもの(同91頁)。
ちなみに、ディケンズを「貧乏人」の代弁者と呼んだG.K.チェスタトンにとって、「貧乏人」とは小商店主や召使いを指すらしい(同上)。
他には、機械の話がある。「ディケンズは機械に弱い」(同112頁)というのだ。作品の雰囲気が19世紀の初め4分の1に近いとか、当時の発明(電信、元込め銃、生ゴム、石炭原料可燃ガスetc)についてほとんど言及しないといった具合だ。それを踏まえて、次のように言い表されている。
機械そのものについては無知でも機械の社会的影響力は察知できる人間……もいるのである。ディケンズの精神にはこの面が欠けている。未来についてはほとんど考えないのだ。彼が人類の進歩というとき、それはたいてい
道徳的 進歩―― 人間がましになること――なのである。おそらく彼は、人間の善良さは技術的進歩に対応するということなど、認めようとしないだろう。この点がディケンズと、彼の現代版H・G・ウェルズとのいちばん大きな違いである。同113-114頁。
H.G.ウェルズは別の箇所で(同80頁)、現代のディケンズの同類を求めるなら一番近い人物として挙げられているが、ここでその違いが指摘される。
なお上の引用箇所の続きは、ディケンズに対して割と容赦ない。
したがって、【ディケンズには:筆者注】目につくものすべてを片端から攻撃するくせに、比較の基準になるものがないのだ。……彼は当時の教育制度に一分の隙もない正しい批判を浴びせているわけだが、結局、教師たちがもっと親切にならなければだめだという以外、何の対応策があるわけでもない。……彼の道徳感覚が狂うことはぜったいにない。だが知的好奇心のほうは皆無にひとしかったのだ。
同114頁。
途中「……」省略した箇所には、ディケンズがこういう学校もありえたという理想を示す、または、自分の息子をパブリック・スクールに入れるのではなく、自分の計画に基づいて教育するといった対応をしなかったことが指摘されている。
それにしても、知的好奇心が皆無に等しいとまで言うのは凄まじい。オーウェルは、それを意識したのか「ディケンズの愛読者なら、この辺でそろそろ腹を立てはじめたのではないだろうか」(同121頁)と言う。なぜ、オーウェルはディケンズに分析と同時に、このような(ときに悪罵にすら見えるような)ディケンズ批判を行ったのか。
わたしはもっぱら彼の「本質的な思想」ばかりを論じて、文学的資質はほとんど無視してきた。だが作家というもの、とりわけ小説家は、当人が認めようと認めまいと、ある「本質的な思想」を持っているもので、その影響は作品の内部まで及んでいるのである。芸術はすべてプロパガンダである。……反面、プロパガンダがすべて芸術というわけではない。
同121頁。
事ここに至り、オーウェルの動機は明白だろう。そして、強調表示した箇所こそ、オーウェルの基本的姿勢であり認識であった。彼のこうした思考は、1946年の「なぜ書くか」で定式として語られるが、それは後年のこと。1940年の「チャールズ・ディケンズ」では実際の作品から作家の思想を剔抉した上で、自らの態度表明を行うというアプローチだ。
話を戻そう。オーウェルはディケンズとトルストイを次のように対比する。
……よほど遠回りをしないかぎり、われわれはディケンズからあまり何かを
学ぶ ことはできない。……トルストイの理解力のほうがディケンズよりはるかに大きいと思えるのはなぜか? ――トルストイのほうがわれわれ自身について はるかに多くのことを語ってくれるような気がするのはなぜか? それは彼のほうがディケンズより才能があるからでも、いや結局ゆたかな知性に恵まれているからでもない。トルストイの登場人物たちは成長するからなのである。彼らは自己の魂の形成に悪戦苦闘する。ところがディケンズの人物たちは初めから出来あがった完成品なのだ。……要は、ディケンズの登場人物には精神生活がないということだ。彼らは当然言わなければならないことは完全に言うものの、それ以外のことを話すとはとうてい考えられない。何かを学んだり、思索したりすることは、けっしてないのだ。同136-137頁。
このような評価に同意するか、はてはそれが正しいかは別にして、思わず納得してしまう程の説得力。そして、鮮やかさ。先に触れたように、オーウェルは言葉の表現や語彙の使い方も優れている。「ディケンズの人物たちは初めから出来あがった完成品」という言い回しをサラリと書けるのが、すごい。これは、翻訳者が素晴らしいのもあるが、原文からして優れていることの証左だろう。
なお誤解のないように、そして私が誤りを犯したとも思われたくないため、付け加えると、オーウェルはディケンズよりもトルストイが優れていると言いたいわけでは断じてない。そもそも、オーウェルによれば優れた/劣ったという比較をすることが馬鹿げているのだ。
……実はこういう「すぐれている」とか「劣っている」といった比較をすることが、ばかげているのだ。どうしてもトルストイとディケンズを比較しろというのなら、ただ、トルストイの影響力のほうが結局広範囲に及ぶだろうが、それはディケンズのばあいは英語文化圏の外ではほとんど理解不能だからだ、と言いたい。反面、ディケンズは素朴な人たちにも理解できるのに、トルストイとなると、それは無理である。トルストイの人物たちは国境を越えることができる。ところがディケンズの人物たちは、煙草に入っているサービス券……にその顔が登場する。けれどもどちらがましか、ということはできない。それはソーセージとばらの花とではどちらがましかというのと同じようなもので、両者の目ざすものは、たがいに無関係と言っていいのである。
同137-138頁。
非常に長いが、次のディケンズ評も、優れている。
……ディケンズがさいごまでこっけいな性格を失っていないのは、 権威に反抗しているからであり、権威をかならず嘲笑しているからである。……。
……べつに建設的な提案があるわけでもなし、それどころか自分が攻撃している社会の本質さえ明確に理解してはいない。ただ情緒的に、何かがまちがっていると感じているだけなのだ。彼に言えるのは結局「道徳からはずれるな」ということでしかないのだが、……これはかならずしも見かけほど浅薄なものではないのである。……ディケンズはこういう粗雑な精神の持ち主【社会の形態が変われば万事が改革され、変革が達成されると事足れりとしてしまう人間のこと:筆者注】ではない。……彼の攻撃の対象は、具体的な個々の制度ではなく、チェスタトンも言ったように、「人間の顔の表情」なのだ。大まかに言えば、彼の道徳はキリスト教道徳である。だが……彼は本質的に、聖書だけを拠りどころとするクリスチャンであった。……献身的な信仰ということはあまり彼の思想とかかわりがなかったように思える。クリスチャンとしての面が現れているのは、なかば本能的に圧迫者にたいして反抗し被圧迫者に味方するところである。彼は当然のこととして、いついかなる場合にも負け犬の側に立つ。この論理を押しつめて行けば、負け犬が勝ち犬に変わったときには、彼も逆の側につかなければならないわけで、事実ディケンズにはその傾向がある。
同139-140頁。
最後に、次の一節を引用する。これは「チャールズ・ディケンズ」の最終パラグラフであり、同論の結論にあたる。ここでオーウェルが何を言わんとしたのかは、明らかだろう。
強烈な個性のある作品では、紙背のどこかに、ある顔が見える気がするものである。それはかならずしも現実の作者の顔とはかぎらない。……見えるのは、その作家が
当然そういう顔をしているはず の顔である。さて、ディケンズの場合、その顔は写真の顔に似てはいるけれども、そのままではない。……それはつねに何ものかと闘っている、だが堂々と闘ってけっしてひるむことのない男の顔である。広い心を持ちながら怒っている 男の顔――言いかえれば十九世紀の自由主義者、自由な知性の顔……。同144頁。
月並みな言葉で言えば、19世紀英国という特定の時代と場所を体現していたのがディケンズなのだろう。もっとも、それをある種の時代精神の体現者とまで言うのは、もはやオーウェルの意図から外れてしまうかもしれないが。
キリがいいので一先ずここまで。続きは、(その2)以降で。
(その2)
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